、ゆっくりとお休みになっては、いかがですあそこの方が展望が利きます、それにまた、あれまでの道中がなかなか見物でございますから」
「ではそういう事に」
一行は開きかけた用意の行厨《こうちゅう》を荷って、いわゆる萩原大菩薩峠の頂から熊沢大菩薩の間の尾根を歩き出す。
制服の学生がいつも謙抑の態度でその案内者です。
「こりゃあ素敵だ」
この道は、さして骨の折れないカヤトですから一行はあたかも遊散気取りで悠々と歩んで周囲の山巒《さんらん》のただならぬ情景に見恍《みと》れるの余裕が出ました。
「どうですこのなだらかなカヤトのスロープと、あのクラシックな立木の模様、さながら古土佐の絵巻物をひろげたようなのんびり[#「のんびり」に傍点]した趣《おもむき》をこの峠の上で見出そうとは思いかけませんでしたよ」
「この大菩薩の嶺からあの天狗棚山までの間の西側のスロープは、その温雅な美しいながめに於て大菩薩に来るほどの人を心酔せしめる処のものであります、この辺を俗に姫の井というのは、どういういわれか知りませんが御覧なさい富士桜が咲いています、ここにこんな美しい清水が滾々《こんこん》と湧いておりますよ」
かくてこの一行は真黒な熊沢山の下、左に高く大菩薩嶺を仰ぐ処、峠の頂きに来ました。
そこには大菩薩峠、海抜七千尺と記したペンキ塗の小さな木標と、くずれかけた石の地蔵が並んでいる。
「塩山では峠の上は雪だといっていたがほとんど雪はありませんね」
「数日前までは此処が一尺ほどの積雪でありました」
「さあ休んで一ぱいやりましょう」
その都度《つど》、その都度、一ぱいやりたがる男が一人いる。
そこで一行が、その行厨を開くべき地点を選択していると以前の学生は、やはり少しく群を離れて大菩薩嶺の方面へ進んで行き、
「皆さん、もう少し此処を上ろうではありませんか、惜しい事です、春だもんですから南アルプスの展望が充分に利かないで残念です」
真にそれは惜しい事でありました。大菩薩嶺上の大パノラマ。
この七千尺の大屏風の上からながめた甲府盆地の大景。南アルプスの壮大なる連脈。期待したそれらが生憎《あいにく》漠々たる春靄に包まれて些とも姿を見せない位だから富士も丹沢山塊も奥秩父も多摩相模の分水方面も模糊として眠るが如き夢の幕に包まれている。しかし、この七千尺の大屏風の中に描かれた典雅にして明媚《めいび
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