はもとより完全であったでしょう、学者がそれを守り、それと運命を共にするの高尚な犠牲心が浅草の観音を守る市民と同じように行かなかったのは何故でしょう、これは千秋《せんしゅう》の恨事ではありませんか……」
一行は黙々として、この胆汁質の脊広の雄弁を聞き流している。
「学者がその宝庫を尊重すること市民が観音を信仰するほどの熱があったなら、あの図書館は亡びずして済んだでしょう……無論我々はこの一例を以て科学は亡び信仰は残るなんぞと高言したがるものではありませんが、その信と熱と力とは、たとえそれが迷信であろうとも正信であろうとも、その由って来る処を、ずんと奥深く考えて見る必要があると思います――」
一行はなお黙々としてこの胆汁質のいう処を聞き流して蟻のように上って行くうち、
「皆さん此処《ここ》が萩原大菩薩の頂上ですよ、大菩薩峠にはいわば二つの頂上があって、これが甲州方面の一つであります」
真先に群を離れて進んだ制服の学生が峠の頂に立って叫びました。
「御覧の通りここが大菩薩の一つの頂上であります、これから見渡す処の長尾、榛《はん》の木坂《きざか》、姫の井といった処を通って向うに見ゆるあれが熊沢大菩薩――さあ事実上、どちらが本当の大菩薩峠の頂上かといえば、あちらの熊沢大菩薩がそれでありますが、名分上の頂は此処であります、ここに近代までの物々交換のあとがありました、妙見のお堂も近年まで此処にあったそうです、また昔しは此処に長兵衛小屋というのがありましたそうです」
此処へ来ると制服の学生が一行の東道となってしまいました。
自然、今までの宗教、科学、芸術等の混乱が一時にやんで学生の謙抑な案内ぶりに一同が聴従する。
「長兵衛小屋というのは何ですか」
「それは、此処に小屋をこしらえて木こり山がつをやって住んでいた男だそうですが兼業には追剥と人殺しもやったそうです」
「それは物騒《ぶっそう》だ」
「時に机竜之助が巡礼を斬ったのは何処ですか」
「誰か知っている者はありませんか」
「それは無論此処でしょう熊沢ではありますまい」
「猿が大木から上下して、いたずらをしたように書いてありましたな」
「さよう」
一行が頭上を見上げるとその辺には水ナラ、榛《はん》の木、栗、白樺、古カンバ等の大木があります。
「どうですこの辺で一ぱいやりましょうか」
「いっそ、あの熊沢大菩薩までお出になって
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