》なる大和絵の数々は一行の人の心を陶然として酔わしむるに充分でありました。よって必らずしもこれより多きを望むことなく展望は空気の冴えた秋冬の候に再遊を期することに一行が、ほとんど同意し、そこで峠よりは少し右へ寄ってカヤトの中、持って来て置いたような面白い巌石の間に適当の座を占めて、そこで初めて行厨を開きました。
制服の学生の山案内は委《くわ》しいものでありました。この青年は大菩薩連嶺を中心としての地理は猪鹿の通る細道までも心得ている様子であります。まさしくこの一行のために、自分も興味を以て東道の役に当ったもので、此処に来ると、談論風生の登山家連も一切沈黙してこの青年の謙抑な案内ぶりに聴従の外|術《すべ》なきもののように見えました。
青年は大菩薩連嶺の南面と北面との景色が全然一変していること、南面もしくは西面はこの通りなだらかな美しい景色であるのに北側には怖るべき威圧と陰惨との面影があること、大菩薩峠の道に小菅大菩薩と丹波山大菩薩との二つがあること。大菩薩峠にも親知らずがある事、「雁《がん》ヶ|腹摺山《はらすりやま》」という名の如何にも古朴にして芸術味に富んだ事、いつぞや土室沢《つちむろざわ》と小金沢《こがねざわ》とを振分ける尾根を通って行くと枯れ落ちた林の中で三十貫もある鹿が小金沢の中に駈けて行ったのを見てすっかり厳粛な気持になったということ、そんなような話に一行を傾聴させて、さてこれから連嶺を南に縦走し熊沢の森林を分けて天狗棚山に登り、そこで再び展望の望蜀を晴らそうということに一決しました。
最初に塩山から馬で出て来た中折帽の男は、そこで馬を塩山方面へ返し、一行とは離れてこれから武州方面へ小菅を指して下るといって一行に別れを告げました。
道のりをいうと塩山から大菩薩峠の上までは四里。大菩薩峠の上より小菅まで三里強。小菅から小河内《おごうち》まで三里、小河内から氷川まで三里。氷川から青梅鉄道の終点である二俣尾まで四里。
その晩、旅人は小河内の鶴の湯という温泉へ泊って翌日二俣尾から汽車で東京へ帰りました。
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改造社より創作一篇を寄稿せよとの希望なりけるが、本来、農を本業とするやつがれ、小説戯作を以て世にうたわるること恐縮の至りなり。さりながら顧命そむき難きままにこの随筆を捧げて以て責をふさぐ(大正一五、六、二)
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