種の好奇心を抱くようになっていた。いまのところ、彼は彼自身へは分相応のつとめをつくしていると考えているのであった。先ず彼は学校へ出席してみたいと願った。しかし彼はすでに学校の方は放校されていた。彼はこのことを思い出しはするのであったが、未だに学校には籍があるような気がしてならなかった。こんなふうに思い耽っていると、彼は型の見えない巌石の階段を少しずつ降りているかのような恐怖に襲われるのであった。
そうして今日と言われるその日その日は、更に彼自身の気持を暗くして行った。彼は母親の手紙を読んだだけで、最早万事は露見してしまったのではないかと疑った。そうしてその疑惑は一瞬ごとに波紋をひろげて行った。美角夫人は彼を監視しているのであろう、それなのに何故彼女は金を与えたのであったろう。彼女は嘘を吐《つ》かれたとは思わなかったのであろうか。彼女は微笑みに輝いた真ならぬ偽を理解しかねたのであろうか、彼の言葉が彼女を惹《ひ》きつけたのであろうか、彼の声の調子は彼女の心を衝き返さなかったのであろうか。それとも彼女は彼の心のなかに見てはならない何ものかを約束したのであったろうか。否、彼はすべて善い方面のみを見ようとしている――しかし実際彼は彼女の気に入るように骨折った。彼は自分の心からの憔悴《しょうすい》を彼女の前で隠した。彼女はいままでに見せつけられなかった彼の態度から多少なりとも驚愕と嫌悪とを感じなかったのである――そうして彼女には彼自身へ向ける疑惑の心などは更にないのである、否、そんな態度などは少しも見せなかったのである――と、するなら彼の生活を誰が彼の母親へ告げしらしてやったのであろう。彼の母親には彼を見張るために密偵を差向けるだけの余裕はない。それなら? 彼は考えなければならない。それは慥《たし》かに何ものかが、その間に介在していなければならない。
「伝心?」
「分身?」
「陰謀者?」
彼はまたしてもこんな考えのなかへ惹《ひ》き入れられようとしていた。その時、親友青沼白心と約束しておいた荷車が今いる宿へ着いたので、彼は自分を不可解な彼自身から呼び醒《さま》したように感じた。そうして彼は秩序もなく荷物をかたづけて送り出した。彼は雪のなかを蹌踉《よろ》めきながら進み行く人のように、その荷車の後ろへ従《つ》いて行った。
*
彼自身は、人が言うように、決して堕落しようとは夢想だにしていなかった。彼自身には、他人から軽蔑されるだけの行為はあったにしても、それは自己の我執を刺戟したまでのことである。その行為の動機は、それこそすべて、他人の冷淡と卑劣と羨望《せんぼう》と臆病とから生れる彼自身の恐るべき不安を愛することに根ざしてはいなかったであろうか、と、こう考え至るなら、彼にとっては、最早こんな事柄はどうでもいいことになる。いまの彼にとっては、何でもないことである。いまや彼は自分の敵に向って宣戦を布告するのであるから。
「宣戦を布告する……どんなものだろう?」と彼が肩をそびやかして威丈高《いたけだか》になるのに対して、「お前は馬鹿だ!」と誰かがその声のない言葉を舌の先きでまるめこんでしまった――彼は歩きながらこんなことを繰返し惑うていた。突然、彼の歩調は乱れはじめた。彼は息をはずませた。彼は坂を登りかけていた。車はためらいがちに進んだ。彼は見るともなく前方を見ていた。青沼白心は坂の上で、頭上高く手を打ち振りながら、彼へ合図をしていた。
「君、遅いね、また君は悲しそうな顔をしているよ!」
彼は親友のその合図を彼自身の言葉に飜訳《ほんやく》してみた。
その夜、彼は床へ横たわりながら、襖越《ふすまご》しに親友と次の会話を取り交した。
「この家は坂の頂上にあるのだね?」
「そうでもないよ、少しは離れてる。」
「……いまにこの家は坂の上から転落して行くぞ、おれの躯と一緒に……」
彼は最後に自分の胸のなかで思わずも言ってみた。
*
日毎に彼は青沼の学校帰りが待たれると同時に、親友の顔を日の光のなかに見てみたいと思う心が劇しくなりはじめた。そうして彼は町の方へも出掛けてみたいと時折はひょっくりと思い出すこともないではなかった。こんな場合、いつも彼には夜の町を彷徨《さまよ》うている彼自身の姿が聯想された。そうして彼は戸外の光を煩《うる》さいまでに浴びているかのように、床のなかで転輾《てんてん》としていた。しかし彼が親友の家へ来たその翌日から、彼自身の心に求めようとするもののあらゆる機会は失われていた。
「少しは早く床を離れて、そこらを散歩してみてはどうか。」と、言ってくれる親友の心持は、彼にもよく飲みこめるのであるが、彼は一言、「ありがとう。」と、言っただけで、口を噤《つぐ》んでしまう。そうして彼は親友の外出する跫音《あしおと》を、軽く自分の耳にいれながら、彼自身の胸のなかの我と話しはじめるのであった。
「おれは朝起きする、いや、少くとも昼前には起きなければなるまい。だが、おれはそんな資格などは、疾《と》うの昔に盗み去られてしまった。おれは自分勝手におれの持っていたものをみな盗み出してしまった。それでおれは自分で凍氷してしまった。おれ自身の内も外もいまは冬の最中に閉じこめられてしまった。そして、おれはおれ自身へ対して力がない。何故なら、おれは自分の魂をおれ自身で剽竊《ひょうせつ》して、誰かに売ろうとしているうちに、うっかりそれを取りおとしてしまった。」彼は自分の胸のなかでのみ怒鳴《どな》るようにぶつぶつ言いつづけた。「それでいておれの熱情は恐怖とともに満月のように輝いてきたが、その火花は見るかげもなく、何ものかに蔽《おお》い隠されるように吹き消されてしまった。そしてそれは定められた一点に発した一直線か一曲線かのように、何処《どこ》へか見当のつかないところへ逃走してしまった。ちょうどそれは、神様でも探すかのように、忍び足をしながら、何処かの廊下でも歩き廻っていることだろう。そしてそれは禁断の扉でも敲《たた》くかのように、一つの秘密の跡を逐《お》い廻していることであろう。若《も》しかしたら、その秘密は、おれの嫉妬《しっと》であるかも知れない。それにしてもおれなどには、最早嫉妬の感情などを持つだけの資格はない。おれはそれほどの罰あたりであるかも知れない。しかしおれは未だに過去の忘却の饗宴《きょうえん》の席へつれられてはいないのかも知れない。何故なら、このおれの執拗な抵抗を見てみろ!」と、彼は誰へ言うともなく呟いてから、彼自身を顧みて、この言葉が自分の気持の上だけのものであることを恥て怕《おそ》れながらも、優しく続けるのであった。「おれは真実悲観はしていたろう。そして無限に欠伸《あくび》をするほど草臥《くたび》れてしまった。しかしおれは絶望はしていない。おれはおれ自身で取りおとした自分の魂を新らしく探そうと彷徨《さまよ》うているのかも知れない。そしてそれに違いない。」彼は決定的に寧《むし》ろ言い含めるのであった。「それに違いはない。おれは産前のありとあらゆる精力を尽したかのように、何ものかを切望していた。それには先ず手近いところからと思って、いまさら言うまでもなく、一人の母親を、あの田舎のくすぶった他人の家に瞼《まぶた》をこすりながらやっと生きている……一人の法外もない馬鹿な子を夢にみている母親を……裏切られたとは感じながら、未だに彼女の子を胸のなかに描いている母親を……」と、彼は囁《ささや》きつづけて、はたと言い淀《よど》んだ。
「それはおれだ!」
「それはおれの母親だ!」
そうして彼はいまさらのようにびっくりしてしまった。今のいままで彼は彼自身ではない他の人のことを夢に見ていたかのようにさえ感じていたそのことが、彼自身[#「彼自身」に傍点]のものであると思えば、寧《むし》ろ奇妙な気持になった。彼は想像の発明に耽っていた訳ではないが、自分ながら己のうかつなのんき者にはあきれてしまった。こう気づけば、彼はその不真面目な、鉛製の玩具のような彼自身が、更に形而下のものに思えた。彼はこんなふうに、彼自身を嘲《あざけ》りながらも、言葉では自分の身振りをつづけていた。
「おれは自分の母親をこの都へ呼び寄せる……おれは自分が身のほどに働いて……お前はもう働けないのだ。お前には最早働くなどという能力はないのだ。よく見てみろ、蜂の巣のように破れたその頭! 姿勢の外は飾れないその躯! 売却したも同じその胸のなかの魂のない心!……いや、これらは昔からの固定観念かも知れない。そしてこれらはおれの舞台上の過程であるかも知れない。こんなもののシンメトリーが、おれというものを、或型に入れるのかも知れない。それこそいままでにない新らしい型の混合の最初かも知れない。そしておれは形而上形而下以外の別のものになるのかも知れない。そしておれは不死の約束に入れられて、新らしいものの継続をつづけるのであるかも知れない。」彼は半信半疑の心で、自分自身を嚇《おど》しながらも、黄金の都会へでも来ているかのように独り言を囁《ささや》いた。「それにしても、おれは浅薄にも溜息とともに大学を止《よ》した。一たいその遠因は何に拠ったのであるか。それは思い出さなければならないほど遠い昔のことであろうか。あ、それはそれほど遠い過去のことであった、それ以来、おれはずっとアンニューイという生物のような智力に苦しめられつづけて来た。それは闇のなかに佇《たたず》む真黒な刺客と何らの変りもないものである。それは人間生活のうちで最も古くそして最も新らしく、時に従って更生を繰返している、その人生初期の観念に破れた、その反動のためであった。少年期の失恋だ。それ以来おれは天井裏を這《は》い廻る夜の蠅のような哲学者になってしまった。おれは黄金の都会から墜落した覆面のエピキュリアンになってしまったのかも知れない!……」
彼は虚言を吐きつづけて、のたれ死にする倫理学者のように、迷妄の境に彷徨《さまよ》うていた。
――影佐が青沼へ物語った或小説の筋――
「金貨のジャック!」
娼婦達は、夜毎に繰返すこの言葉を胸のなかに呟《つぶや》いて白粉刷毛《おしろいはけ》を動かした。
彼女等のクインは、窓辺に靠《もた》れて、湾内の船舶を数えた。
ダブリンの町とその湾とは、蒼白《あおじろ》い光に慌《あわただ》しい雑音を織返していた。
「仕事着の情人!」
港の娘達は、戸口へ佇《たたず》んで、湾内を渡って来る快い軟風を吸いながら、彼女等の胸へ叫びかけた。
彼女等の母親は、台所で食器を友として立働いていた。
夕方に三十分は猶予のある五月の暮方。
E・E・E――商標。
Fine Old Scotch Whisky――看板の黒い文字は逆に読まれる。
このレストランのなかの卓子に、二青年が座っていた。彼等は、先刻、海岸で互に言い交した言葉を、もう一度、胸のなかからカツレツの皿の上へ吐き出した。
「競争者、決闘だ」
「決闘? 競争者」
「ふむ」
「よし」
「決闘!」
「決闘!」
「今夜、客の前で――」
「客の前で――綱の上で――」
「フレンド・シップ・ダンスの時」
「フレンド・シップ・ダンスの時」
「真剣勝負」
「真剣勝負」
緑や赤の灯は、港町を飾った。舷燈は湾内の潮に浮動した。
場末のサアカスの木戸は開らいた。
ベルが鳴った――真鍮《しんちゅう》のベルであった。楽隊のはやしは子供等の足を調子づけた。
十五銭――サアカスの普通席。
子供等は、母の唇へ粗忽《そこつ》なキスをして、町の方へ走った。
娘等は戸口を去った。
夜は影をひいてひしめき合った。
母船を離れた大小のボートは、陸を目がけて夜光虫のように這《は》い寄った。「金貨のジャック」は娼婦の窓を見上げた。
「決闘!」
ペテロは、胸へ十字を切って、楽屋へ這入《はい》った。
「真剣勝負!」
サルフィユは、楽屋の入口で舞台を覗《のぞ》いてみた。
満員
鯨波
拍子
……………
「どうせ金で買われて行く流《ながれ》の身なんですもの
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