…少し病気でもありはしまいかとも思った、それとも何か考えごとでもあったのか?」
「うむ、考えたかも知れない……」
そうして彼は唇のあたりへ苦笑ともつかない青沼の優しい微笑を見逃しはしなかった。彼には左右へ首を動かしている熊にも似た親友の態度が煩《うる》さく思われた。
「また何かね、それヴェトウェンが大工でなかったと言うことかね、それともゲエテは彼の生涯のうちに幾回口笛を吹いたかと言う例の事柄かね?」
こう言った青沼は、腕を胸の上へ組み合せて、部屋のなかを調子でもとっているかのように歩き廻った。
「莫迦《ばか》な、アハ、ハ、ハ、ハ……」
彼は自分の額《ひたい》を拳《こぶし》で叩きながら笑った。
「ああ、興奮はよくないよ、アスファルトなどの烟《けむ》りたつような興奮はよくないよ……今度僕は三間の部屋のある家を貸りたのだが、君もそこへ来てはどうだろうかね? 少しは静養にもなるし……そこは郊外でね、そうしたまえ!」
「うむ」と、彼は思わずも口を滑らしてしまった。「だが、おれは殺されたくはないよ。殺されたくは……」
「殺す? 誰が?……君をかね?」
「アハ、ハ、ハ、ハ、解りはしまいね?」
「巻狩りをするのか、困るよ。」
「君はどう考えた?」
「何を?」
「万事休す、そして生きた人間の魂を買収するのだよ。」
「誰の?」
「人間の……つまり確かな証拠を握るために……しかし多分その人間が、いや、その男が捕えられた時には、彼はすでに破産者になっているだろう――狼狽と擾乱《じょうらん》と滅亡とそして眼には見えない悲惨との犠牲者になっているだろう……二重の復讎《ふくしゅう》になって……」
「よし給え、君の言っていることは、僕には嚥込《のみこ》みかねるね、一たいそれは憤恨かね、それとも自己侮蔑かね……僕には解らない……君は何かへ対して挑戦でもしていそうだ。そんな健全でない自己嘲笑はよし給え……それとも皮肉かね……君は君自身で妙な秤で評価しようとしている……」
「そうだね、歪んだ秤だよ。」
「もういい加減のところで止《よ》すのだね、君はどうかしているのだ?」
「うむ、忘れるな、希望が湧いたのだよ。」
「希望?」
「いや、貪婪《どんらん》な悪魔……」と、彼は言いかけて、彼自身を顧みて見ようとする気になった。その時彼にはそんな衝動が感じられたのであった。そうして彼の言ったことが、ついには滑稽《こっけい》な様子で解剖台の上へ転輾《てんてん》とするのではあるまいかと思うと、彼は自分の狡猾《こうかつ》な態度が呪《のろ》わしくなって来た。そうして彼は、かなりぼんやりした文句ででも、親友青沼はすでに自分の敵であると悟らせようとしたことが恥かしくなって来た。それに両眼を閉じて頬《ほお》を顫《ふる》わしている親友が気の毒でもあった。よし彼の言ったことが狡猾《こうかつ》とは言われないまでも、取るにも足らない憤恨の安売であった。言わば憎悪にはじまった復讐の態度であった。そうしてそれらは唾を吐きかけられるものでなければならない、同時に意義を求める人々にとっては笑うべきことであったろう。それこそ文字通りに彼自身が言った貪婪な悪魔の身振りに違いなかった。彼は彼自身をメィフェストやヨブに擬《なぞら》えようと無意識のうちに考えていたのであったと思えば興味がないでもなかったが、却《かえ》って肉体的の憂鬱《ゆううつ》を感じさせられる方が遙かに多かった。そうして彼は自分の手で仕掛けた罠に陥ったようなものであったと思えば、自慢の出来る話ではない。そうして彼はとうとう独り言を言うようにしかも何気なくちょっとは思い出せない人の言葉を呟《つぶや》いて見た。
「や、これは全く日毎日毎の悲劇の永遠的な喜劇だ!」
そうして彼は自分がその場にただ一人でいて、勝手な妄想に耽《ふけ》りきっているかのように振舞うた。
間もなくして彼と青沼とは散歩に出かけた。電車は頭を痛めるという我儘《わがまま》な彼の申し出から二人は歩いた。空は重苦しく垂れ下って来そうであった。それに少し歩くとびっしょりと汗が滲《にじ》み出て来た。彼は不思議に落着かなかった。こんな気分が相手へ感じたせいか、彼が親友と腕を組もうとしたら、親友は恥かしそうにそれを拒んだ。彼は声を出して笑った。青沼は打たれた後のような顔色をして余り口も利かずに、絶えず何かを聞こうとするかのように耳を澄している様子であった。
彼等は自動ピアノの据え附けてあるレストランで、軽い昼餐をとった。そこを出てしまうと、彼は突然思い出したことがあるかのように、親友へ別れを告げた。青沼は無言のまましかも彼自身の気のせいか、眼を潤《うるお》わせながら、数回頭を下げて挨拶《あいさつ》した。彼はもう少しのところで、親友の傍へ近寄って行き、その手を力強く握ってみる気になった。しかし彼は遠くの方に電車のカアブする響を聞いて、ひょっくり気が抜けてしまった。そうして彼は自分の足が、親友のそれとは反対の方向へ歩みはじめた時、全く別な考えに捉えられていた。そうして彼の目前には、華《はなや》かな躁宴の光景が、はっきりとしかも細やかに描き出されていた。すると彼は現に自分が金の持合せを欠いていることに寂しさを感じた。ふとこんな考えを逐いかけると、彼は自分の躯の置き場所に苦しむように感じた。彼は自分の躯が、足の指先きから痺《しび》れて来るようにさえ感じた。そうして今彼が歩いている弓型に撓《たわ》むその町の通りは、急にその反対の方へ反り返えるように思われた。彼はそんなとりとめない考えを楽しみながら歩いていた。そうしてこんなふうに考え続けている一方では、これらの考えを、夕暮時、気まぐれにであるが、反射のために輝やく金色の潮ででもあるかのように思っていた。それにしても現実の姿を失うこのことが、彼自身には大へんグロテスクな面影のように思えた。そうして彼はデカダンスのような熱情に煽《あお》られて、そんな物象の陳腐な幻想に多分の興味を惹《ひ》かれてもいた。
その夜、彼は美角《みます》夫人を訪ねた。彼女は生きた良人《おっと》を持っている未亡人であった。そうして彼と彼女との関係は、彼女が彼の母親の遠い親族であるというに過ぎなかった。彼女は三十初代の婦人であるにも拘《かかわ》らず、胃が弱く、その上悪い血が彼女自身の顔に薄赤い斑点を描いていた。彼女は類なく老婆心が強く、同情心も多分に持っている。
彼は美角夫人の前で血を漲《みなぎ》らせながら、かなりの注意を怠らずに語った。彼は彼女の言葉ごとにその意味を探索した。彼は彼女の考えを彼自身の胸のなかで臆測した。彼は偽欺を固く包んで話をすすめた。――
「……で、僕はもう六ヶ月もすると大学を卒業します。その時|周章《あわ》てたところで仕方がありませんから……あなたは信じて下さいましょうが……あの田舎の優しい母親をこちらへ呼び寄せて一つ家に住みたいのです。僕は十分に落着いて、短かい六ヶ月の間にでも勉強したいのです。それについては過分の金が必要だろうと思います。」彼はずるく微笑《ほほえ》みを隠しながら、「そして御存じの通りいろいろ事情が起りましょうが……事情と言っても、今のところ僕にもはっきり解りかねます。ま、金が土台になる事柄です……と、こう考えています。で、いつもながらそのお金を貸して頂きたいのです。」
「ええ、そのようなことになるのでしたら、お母さんはどんなに悦ばれることでしょう。ほんに、ほんに!」
彼女は直ぐに答えて、この最後の声を本当に女らしい声に曇らせて、彼には見えない何ものかを遠く眺めるかのように息を濁らせた。
そうして彼は故郷を出る時、彼の母が自活するようにと与えてくれた当時の大金は、未だ予定通り残っているが、それは彼自身が卒業するまでは費いたくはない、なお彼が学校を卒業してしまえば、直ぐ就職するにいいのであるから、そうしたならその借用金は、いままでの分ともに漸次に返済するであろう。それともそれは、彼の母親が直接に返済するかも知れない……それから家の方であるが、それはすでに友人へ頼んで置いたのが郊外の方にあること、そうしてその家は、相応の家賃でしかも間取もいいなどと、彼の言うことを、美角夫人は、女の一種特有な綿密さをもって聞き返しながら聞き受けた。
彼は馬に一鞭あてて、危険な細い峡谷を真一文字に馳け過ぎるように、自分の宿へ帰った。そうして彼は今夜のことを昨夜に変る幸福と称《よ》んでしまった。この有頂天で、彼は美角夫人の先刻の微笑と涙とを幻にすら見た。しかしこの幸福と称んだものは、彼自身が満足した誇りであったろうか。
……………
彼が舌を咬《か》みしめて、三百四十円と書かれた小切手を目にした時、彼女の顔は明かに微笑むともつかず、かすかに歪められていた。そうして彼女は、低い聞きとれないぐらいの声で、その小切手を指差しながら、この余分は彼女の贈りものとして受けて置いてほしいと言った。彼は軽く頭を下げて、直ぐその座を去った。彼女は玄関まで送り出てきて、閾《しきい》に両手をついたまま彼が門を出てしまうまで、彼の後ろを見送っていた。いま彼には彼女のそんな様子がまざまざと見えるような気がしてならなかった。そうして彼女は、「あの男は何をあんなに喜んでいるのだろう、あたしにはその訳が解らない!」とでも考えている様子であった。この考えが彼の気持であるだけ、それほど彼は訳もなく有頂天になって、その帰りには足早にしかも軽々しく歩調を乱していた。
「では御機嫌よう!」
彼は門を出てしまうと後ろを振向かずに、小声で囁《ささや》くように呟いた。
……………
その夜、彼の胸は、有頂天に乱れてはいたものの、与えられた謙遜と同じ程度に暗く濁っていた。彼は梟《ふくろう》の声を耳にしなかった。彼は外面的にはかなり落着いていた。彼は自分の計画の齟齬《そご》しなかったことに興味を覚えた。そうしていまは彼自身の迫害者さえこの非道に似た一種の犯罪を嗅《か》ぎつけなかったと思えば、彼には何とも言えない無思慮の愉快感が感じられた。
その翌日、彼はわきめもふらずに、町の昼の雑沓《ざっとう》をその中心から遠退《とおの》いた。そうして彼がM――銀行で用を達してから約一時間は経過していた。――
彼の債権者は彼へ笑いかけて挨拶した。彼は口を噤《つぐ》んで、眼球を風車のように動かした。しかしその時、彼のポケットには、一日の煙草銭さえなくなっていた。そうして彼の貧しい札にありつけなかった債権者の一部の者は、彼の顔を煩《うるさ》く覗《のぞ》き込んだので、彼は一こと物を言わなければならなかった。
「三日後にするのだね、ではこの次に……いまは仕方がないのだから……」
彼がそれらの債鬼へこう言ったその三日目の前日は、彼が親友青沼の家へ移転する日であった。
*
冷かな風はすばやい忍び足をして、青い空を横切って行った。彼はこんな天候の対照でさえ自分の胸のなかが冷たくなって行くように感じた。
彼は靴音のような喜びと驚きと怖れとの雑った一種の苦しみで、彼の母親から送られた手紙を読んでいた。彼女は明日にでも上京して来るようなことを書いて寄越《よこ》した。そうしてそのことのみをその一本の手紙のなかに口やかましく繰返していた。彼自身にとって必要なことは何一つ書いてなかったと言えるほどであった。こんなことになったのも、美角夫人からの手廻しであろうと、彼は不快になって後悔した。母親は彼が何事もせずに、我儘勝手に歩き暮していると考えている。そうして彼女の考えに間違いはないのであった。ところで、その用もなくぶらぶらと歩き廻ることは、この機会を利用して止めてほしいというのであった。彼自身としても、こう言われるまでもなく、一日一日と遊び暮していることは、退屈であるばかりでなく、更に心苦しいことであるから、このことを思う瞬間からでもすぐ止めてみたい、そうして学校へも出席してみたい。と、彼は願っている。しかし彼はこう自分自身へ願っただけでどうにもならなかった。そうしていつのころからか、彼は彼自身へ向って一
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