ひとり一本縄に倒《さかさ》にぶらさがって、喇叭《らっぱ》を吹いているのを見た。その次の日、彼は彼女に逢わずに彼女へ花環を贈った。多分その幸運な花環は彼女の腕に抱かれたことであろう。果してそうか? その日は雨が降っていた。彼はその日も映画で娯《たのし》んだ。その帰りがけに、彼は鏡の壁のあるカフェへ寄って、椅子にかけていてちょうどいい具合に上半身の映る鏡を覗《のぞ》き覗き、自分の映像を相手に大へん大きな下|顎《あご》を上顎へ摺《す》り合せながら食事をした。そうして彼はその店を出て、細い小路を抜け、通りへ出ようとした角のところで、突然呼び止められて吃驚《びっくり》した。
「傘に入れて下さい、お頼みします。」
彼が注意してみたそこには、花売娘の支度をした少女が雨にうたれて気恥かしげにではあるが、泣きもせずに佇《たたず》んでいた。彼はそのひとをちらりと見ただけで、口を噤《つぐ》んだまま傘を差し出した。そうして彼はそのひとを怪しむ心にもなれずに歩き出した。
「しずかに!……」
「……おや! おや!」
その少女は妙なアクセントで呟《つぶや》いた。
「……」
「泥がはねかえったの、靴へ。」
彼の頸《くび》が振向く瞬間に、その少女の右足は、宙に浮いていた。そうして彼はその少女の靴へほんの少し蟋蟀《こおろぎ》の糞《くそ》ほどの泥がはねあがっているのを見つけた。
「何か持っていない?」
「……」
「拭くもの!」
彼はこの言葉で狼狽《あわ》てながらも、懐中から先刻貰ったプログラムと真新らしいハンカチとを一束《いっそく》たに掴《つか》み出した。彼にとって、そのプログラムは日記の全頁に相当していた。笑いごとではないが。彼は一時の虚栄からではなく、そのハンカチを彼女へ与えた。彼女は雨にうたれていまは消えてなくなった靴の上の泥のあった跡を、そのハンカチで拭ってからそのままそれを捨ててしまった。赤黒い泥の上で真白なハンカチが皺《しわ》くちゃになって笑った。
「ストップ!」
その声は人の度肝を貫くような命令であった。その大きな声の叫ばれた瞬間、彼はどきんと胸を叩かれたように感じた。彼は馳け足をする最初の時のように項《うなじ》を擡《もた》げた。幾千万の眼が傘の下から彼等二人を眺めていた。こんな場合ではあるが、よく見てみると、町の一角に撮映機を据え附けた外人の一隊が、機械のハンドルを止めて、こちらを見守っていた。
「〜〜〜〜 〜〜〜〜 〜〜〜〜」
「〜〜〜〜 〜〜〜〜 〜〜〜〜」
人人の声がいっせいに和したのであったが、彼にはその声が完全な言葉としては聞きとれなかった。そうしてそれは人の名前が叫びあげられたようにも感じられた。その時、彼は蜜蜂の一群が、彼自身の周囲に小さな龍風《たつまき》の渦を捲《ま》いて飛び乱れたかのように感じたので、思わずも腰を折って馳け出した。
「誰だ?」
「あの男は?」
「誰だ?」
彼は律動している蓄音機のなかから飛び出したように感じた。そうして彼はそれらの声に逐《お》いかけられながら、ようやく逃げのびて、土蔵の立ち並んだ黒い色の感じのする町のなかへ、彼自身の姿を見出した。その時、彼は何者かに逐いかけられているように感じた。その瞬間、彼は一人の男に呼び止められて、振向いた。そうして彼は若しも鳥ならば何よりも先きに羽撃《はばた》きするように驚いた。
「影佐君?」
「……?」
彼は返事もせずに機械的に立ち止まった。靴は泥のなかへめり込んだ。その男は馳けて来たらしく息を弾《はずま》せていた。ちょっと見ると、ポオル・ゴオガンのような感じのするその青年は、彼の学校であるL――大学の制服を着ていた。
「影佐君ではありませんか?」
「……え!」
彼はこう答えたものの、何故に見知らぬこの男はこんな気恥しいシインを見逃してはくれないのかと不快に思った。それともこの男は、彼のいまの苦境を全然見なかったのかも知れない。しかしそれはそのいずれのことにしてもいいのであるが、この男は彼自身の名前を知っている。彼はそのことに疑念をはさんだ――
「このごろは少しも教室へ見えませんな!」
この場合ではなくとも、この質問はこの頃の彼にとっては詰問である。誰に問いかけられるとも。しかし――彼はこの男もやはり自分と同じクラスの者であるに違いないと思った。それにしても彼が教室へ出席しなくなってから、彼は余程の日数を数えるにいいのである――教室にあって、彼は彼自身の溜息とセコンドとの数の交響楽のリズムをひとりでに教えられた。彼はふと教室の模様を目前へ描いてみた。そうして教室の窓越しに豊麗な四月の町が、彼自身の瞳へ映っているようにさえ感じられた。そうして彼は自分の唯一の楽みであるその窓から、人間の言葉とか動作とか人生の影とかを掴もうと夢みたことを、いまだに忘れてはいない。そうして彼はそれらもろもろのものの説明を聴きたいばかりに、不安な感じに抱かれながらも、日光を浴びた町の光景のなかへ誘い込まれた。そこへ跳び出た。そうして彼は眼|眩《くら》みながらも、そこここを歩き廻った――
彼はふと思い出したように、自分の目前の青年を顧みて、ひと口てれかくすように訊ねてみた。
「どなたでしたか?」
「青沼白心です――どうでしょう、コーヒーでも飲みませんか。」
こう言って青沼は周囲を見廻した。そうして青沼は歩き出して、ちょいちょい彼を振返って見た。そうして彼等はその町の出鼻のところで、一軒のカフェを見つけた。彼等は寒水石ではないが純白な色の円卓子へ向き合って坐った。彼が気づくと、その円卓子の縁一寸ほどのところを一本の金線が細く円を描いていた。彼はその金線に添うて、火をつけない一本の巻煙草を置いてみた。彼は周囲の上へ直線がきちんと重ならないことは知りながらも、考え深かそうにそれを幾回でも繰返してみた。そのうちに青沼は自分の独り言のように小さな声で、彼へ話しかけた。
「さっきのは素晴らしいスクリーン・スナップ・ショットでしたな!」
その時、彼はちょうど一線に擬えた煙草の直線の一点へ金色の円周の一点を接点さしていた。――突然、接点は離れてしまった。
「えッ? え、え、え、え!」
彼の相手はその顔を彼自身の眼から外してうつむいてしまった。彼はかすかに微笑《ほほえ》んだ。彼等は一種の暗合のように同時に立ち上った。町は明るい光に淀《よど》んでいた。四月の雨は止んで、桃色の雲はあざやかに浮びあがり、その中心を西の方へ惹《ひ》いていた。彼等二人は再会を約しながら快く別れた。
*
彼は四個の行李と、書物と、プログラムとの間に埋もれながら、自分の親友青沼白心のことを考えていた。彼自身の気持は晴々と澄んでいた。
この時、突然のことのように、彼は戸外に雨の降る音を耳にした。雨滴をきいて一段と彼は安心した。そうして何心なくしかも自然であるかのように呟《つぶや》いた。
「これですっかり、足蹟は消えるぞ!」
そうして彼は再び不安な気持ちに捉われた、それと同時にいまの言葉で盛りかえされたかのように悪い連想はまたしても生き生きと尾を振りはじめた。それに巣を離れて活動している梟《ふくろう》は、墓地の森のなかでしきりに鳴きはじめた。
「あいつがおれの思うこと一切を世間へ告げ散らしている、あの兇鳥《まがどり》が……あいつはおれの臆病な敵の間諜《かんちょう》だ……」彼にはまたしてもこの電流のようにすばやい閃《ひらめ》きが憫《あわ》れにも感じられて来た。そうして緊張は一秒一秒に増してくる。彼は自分の最後の頼りになる唯一の親友のところへ行けばいいのであると考えに逐われていた。それは精神的の悦びのように彼自身の躯のなかを馳《か》け巡《めぐ》った。いま彼は自分の名誉を毀損《きそん》されるというような安易な不幸に陥ろうとしているのではない。それは彼が彼自身の身をもって当らなければならないほどの不幸である。こういうふうに彼が考えれば、彼は自分の親友のところへ行くことを断念しなければならないようになった。というのは、若しも彼が青沼を頼って味方になって貰うものなら、親友は彼自身とともに彼の敵の的にならなければならない。これは断乎とした論理を含んでいる。可笑味《おかしみ》のある馬鹿気たことではないのである。それにしても彼は自分が盗みをしようとした考えにこだわっていて、それが看破されたことを恐れているのであろうか。否、彼はすでに愚鈍な技巧と真面目くさった態度の倫理家の妄語に苦しめられてはいない。しかし彼は自分へ対する言訳には、抵抗出来なくなっている。否、それはちょうど、偶然の出来事か、記憶を去ろうまいとする考えかが、いずれにしても一瞬はそれらの生命を保って、人間精神のなかへ、一生に一度ぐらいは巣喰うてみようとするその輪廓のない生物によって起させられる或印象と等しい価値を持っているものであるかも知れない。しかしそんなことはもうどうでもいいことになっている――……雨! 雨! 雨よ降れ、降れ! あの兇鳥が吐き出すおれの悪口を土のなかへ葬むるように強く降れ! おい、追放された憐れな雨!……――彼は雨が彼自身ででもあるかのように呟いていた。――……お前はいま涯しない虚空を失おうとしている。悲しんでなどはいまい、そんなことなどはあり得るものか。気儘《きまま》勝手に自由な跳躍を恣《ほしいまま》にするにいい雨ではないか。お前の見えない脚で何にもかも蹴散らしてくれ、思うさま叫んでくれ! 虚空さえ掴《つか》み損ねて呻吟《しんぎん》しているおれのために!……――そうして彼は彼自身の心臓を虚空へ掴み出して投げ捨てたかのように藻掻《もが》いた。その投げ捨てられた心臓は、赤く燃え廻ってその真赤な尾を打ちふりながら部屋じゅうを跳んで廻っているかのようであった。そうして彼自身の周囲に取り散らかされているものみなは、紙と言わず書物と言わず狂い廻る彼自身の心臓の跳梁《ちょうりょう》のためあらゆる存在を嘲《あざ》けるかのように飛び散った。そうしてそこには散乱したる誠実がすばやく眠りから醒《さ》めて嘲り笑っていた。
その翌朝、彼は飛び散った紙片の下敷のなかに短かい眠りを醒《さま》した。この日は日曜日であった。
昨夜の雨はその夜のことを忘れたかのように晴れ上っていた。彼は綿密な注意を配りながら部屋のなかを見廻した。そうして今や彼は荷造りでもはじめようとするかのようにしかも手荒に行李をかたづけ、押入のなかへしまい込んだ。そうして彼は路地の入口の店へ煙草を買いに行くついでに、街路の様子を窺《うかが》ってみた。乾き切らない路は、タイヤーとか靴蹟とかのために無惨にも掘り返されていた。ちょっと気を奪われて見ると、まるまると毛にふくらんだ子犬が、向側の寺院の石段を脚早に登って行くのであった。子犬の躯《からだ》は重そうに見える。いかにもその足並みが苦しそうに見える。しかしその子犬は、石段の上の見えないところから漏《も》れてくる口笛を目当てに急いでいた。
彼が求めた煙草はかなり香味を失っていた。そうして彼が部屋に戻って、三本目かそこらの煙草を喫《の》み終らないうちに、障子の外で人のけはいがした。
「居るかね。」
「うむ……」
部屋へ這入《はい》って来た青沼白心の顔は、一瞬わざとらしく歪《ゆが》められた。
「や、これはひどい烟《けむり》だね……君、君の死んだ後で、君の肉体を煙草にして喫んだら、さぞ美味《おい》しかろう!」
青沼の呟《つぶや》くようなこの言葉は、彼をいたく苦しめた。これは青沼の冗談であろうか。と、またしても奇妙な考えに耽けろうとした時、彼は時計の打ちひびく音を階下の方から聞いた。
「みじめなものさ……そうむちゃに喫むのはよし給え。」
この言葉で、彼は親友も亦《また》、彼自身の敵の連累《れんるい》者になったのではあるまいかと疑いはじめた。
「おれは多分死ぬだろう!」
彼は自分へ言い惑うように言った。
「また君は興奮してるね。」
「そうかも知れない、見る人によっては……だが、そんなことは万々あるまい。」
「そうかね、それならいいのだが…
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