唄いますわ、唄いましょう!」
 コールテーアは胸へ両手を組合せた。
「金は肉だ!」
 青服は顔を歪《ゆが》めた。
「金は血だ!」
 大工はパイプを銜《くわ》えた。
「金は呼吸だ!」
 壁塗職人は口笛を吹いた。
「マコトノヨ、ヒトリノオナゴ……」
「嘘だ」
「昏倒せえ」
「地獄へ出てゆけ」
「マコトノヨ、ヒトリネミドリゴ……」
「豚の子」
「尻尾をちょんぎれ」
「ハハノウデ……」
「スカートが燃えるぞ」
「金髪をとれ、その鬘《かつら》だ」
「栗色」
「不快」
「金」
「血」
「肉」
「呼吸」
「ヒッス」
「ヒャア、ヒャア」
「ヒッス」
 ……………
 女は男の前方へ腰かけて、靴下の穴をつくろうていた。灯は柱時計の下に点っていた。部屋は薄暗い。
「あたしのウィリイは……」
「何だと? 勝手にサアカスなどへやって」
 男は銜《くわ》えたパイプを鼻の先で弄《もてあそ》んでいた。
「……」
「あいつは好くはならんぞ」
「神様、あの子、ウィリイを守り給え」
 囁《ささや》く彼女の膝《ひざ》の上では、靴下の穴が大きくひろがっていた。
 ……………
「始めた!」
 ……………
 鯨波
 拍手
 ベルが鳴った――騒音のなかに、ベルは声高く鳴り響いた。
 拍手
 大太鼓。小太鼓。喇叭《らっぱ》――クラリオネット。タンバリンはブリキのバネ仕掛の汽船のように震える。
 アダムの父は後脚を空へ蹴上げる馬の背に威張っていた。いま、彼はミリタリズムの型に熱中している。
「猿!」
 彼は剣を抜いた。百花燈に反射した一本の指揮剣は数千の瞳のなかへ閃《ひらめ》いた。彼は無言である。馬は鞭《むち》の響に一段と跳び廻った。その度に将軍の尻尾は服のなかから空へ踊り上った。
 ……………
「煙草」
「ポケットだ」
 開らききらない娼婦の指にはダイヤが閃いた。
 鯨波
 拍手
「ペテロ!」
「サルフィユ!」
 二青年はレースの襞で白く縁どった青い上衣に赤い半ズボンを穿《は》いて現れた。彼等の剣は左の腰に佩《つ》ってあった。
 鯨波
 拍手
 青年二人は高く張り上げた綱の反対の両端に乗って弾動した。
 ウィリイは微笑《ほほえ》んだ。
「おれの世界だ!」
 彼は意味もなく空を見上げた。天幕の裏が波打っていた。彼は淋しかった。彼がペテロでもサルフィユでもなかったので――彼は騒擾《そうじょう》のなかに咳《せき》をした。一瞬、彼の瞳は曇ったが、泣いていたのではなかった。
「おれの憧れは憧れ以上のものではない」
 彼は身内を顫《ふる》わした。彼の疲れた瞳には軽い微笑みの色が浮いた。
「おれの才能はペテロを見るだけにも足りない。ただ彼を楽しむに過ぎない」
 彼の眼は綱へ平行して走っていた。
「おれの才能はサルフィユを見るだけにも足りない。ただ彼を楽しむに過ぎない」
 彼の掌には油汗が滲《にじ》みでていた。
 楽隊
 鯨波
 拍子
「フレンド、シップ、ダンス」
「おいらのサルフィユ、しっかりせえ。足元をしっかりせえ」
 ペテロは相手を少々馬鹿にしてかかった。サルフィユは先ず彼の剣を突き出した。
 カチン
 火花
 ペテロは軽く腰を引いて、相手の顔を睨《ね》めつけた。
 カチン
 火花
 ヒュッ――ヒュッ
 火花
 火花
 汗――
 熱狂
 動悸
 熱い呼吸
 血の熱狂
 肉の躍動
 汗
 熱い呼吸
 心臓の鼓動は綱の上に波打った。
 声――
 声
 怒
 怒
 火花
 憤怒
「おいらのペテロ」
「おいらのサルフィユ」
「しっかりせえ」
「それッ」
「右だ」
 カチン――カチン
 恐るべき光景
 笑うべき光景
 観客は両人の事情を露さえ知らなかった。
 楽しむべき光景
 恐るべき光景
 観客は両人の決闘を演技の一つと思った。
「ヤッ」
 綱は波のように弾んだ――空気は血の色をして閃《ひらめ》いた。
「畜生」
「右だ」
 カチン――カチン
 火花は散った。
 サルフィユは背撃を食って、身体の中心は落下に奪われた。瞬間、彼はもんどりうって、両手でしっかりと綱を掴《つか》んだ。綱は大波を打って、空気を裂いてはげしく揺れた。
 ペテロも亦《また》、はずみを食って転落した――しかし彼は頭部を倒《さかさ》にして、足をもって綱にぶらさがった。綱は弾んで鳴った。
 拍手
 鯨波
 観客は荒された丘の畑のように乱れ、どよめくままに鯨波とともに総立になった。
 渦巻く声――
 渦巻く声――
 高翔する声――
 空気は意識あるもののように鳴った。
 この記念すべき光景――
 この記念すべき言葉――
 狼煙《のろし》のように、サルフィユの言葉は空中へ突進した。
「満場のみなさま、御覧下さい。ペテロの靴の踵《かかと》に附いている金具を御覧下さい。ペテロ君が、きょうまで、綱の上で暮して来た金具を御覧下さい。おれよりもすぐれたようなふうをして……」


 彼はこう語り終って、空を見上げながら自分でも解らないことを低い調子で独り言していた。そうして彼等二人は、いままで思い思いの考えごとを楽しんでいたかのように、無言のままでしかも顔を隠し合いながら、淋《さび》れてゆく秋の庭を眺めていた。
「ペテロとサルフィユとの心理は一応|呑込《のみこ》めるが、話としてもその表現はイージーゴーイングだね、しかし大へんすばらしい思いつきだよ……」
 彼の親友青沼白心は、突然投げつけるように言って、折り立てた膝の間へ自分の顎《あご》を挟んで、庭の隅の方を※[#「目+嬪のつくり」、194−上−15]《みつ》めていた。
「思いつき……書けるかね?」
「ふむ、イマジナティヴ・コンポジションと言った方がいい、書くとするなら……」
「ふむ、しかしこれは、おれがいままでに見た映画のつぎはぎさ、本心を言うと。で、おれは(夢に見た映画)と題をつけておいたぐらいだ。形式についてもかなり作意したつもりだ。いま話したあのまま書くつもりだ。それにしても純然たる竊盗かも知れないが――くだらないテイマでね、うっかり書いてしまうものなら子供じみたモラル風の味の外《ほか》はでそうにもない、それともそんな味さえ消えてなくなるかも知れない。焦点がなくなって。つまりやぶにらみになって……」
 彼はいままでに思ってもみなかったことを言ってから、かすかに忍び笑いをした。それは彼自身のためにであった。そうして彼には、柄にもなく大仰なことを言ってしまったことが、劇しく後悔されはじめた。彼の言ったことは、すべて過失として後悔されはじめた。彼は出来るだけの機会を捉えて親んで来た所謂《いわゆる》イマジナティヴ・コンポジションが、たった一言で無惨にも蹴散らされたと思えば、それまでのことであるが、蜂の巣のように破れている頭を信じている自分が情なく感じられた。そうして彼は未だに彼自身の自惚《うぬぼ》れに酔うていないこともなかった。
 そうしてあのコンポジションのうちに、ひょっこりと思いついたあの気の毒なウィリイこそ彼自身に外ならないではなかろうか。ところで、あんな筋の話は、所々方々、いたるところに捨ててあるものだ。それを彼はいかにも自分が作意したかのように言いふらした。彼は親友の気持を欺いてもいいと思うほど、彼自身の虚勢が大切であると考えていたのであろうか。それにあの気の毒な少年は、彼自身の対象として、直面的に見、極く簡単にではあるが、かなり貴重な置地においてある。勿論それはあれだけの説明では足りない、と彼は考えている。しかしいくらかは何事かを訴えるだけの力は含まれていないこともない。それともそんなことは少しもないのであろうか。神のような心をもっているあの少年が、彼自身と同じくあらゆる機会を取り逃がしている。少年は何事をかなそうと考えている。家を逃げ出してサアカスへ加入させて貰うことを無想しているのかも知れない。少年は果して何を考えているのか。しかしウィリイは泣き笑いの生活で満足しているらしい。これは兎《と》に角《かく》として、彼は親友の言葉でかなり機嫌を悪くした。彼は親友をいままで見誤っていたのであろうか。しかし彼は親友の言葉を意地悪く受けいれてみたとしたところで、どうして悪かろう。そうして若しも彼が親友を欺いたとしても、彼自身の虚勢は本物の虚勢であったろうか。それが果して本物であったとするなら、それこそそれは、嫉妬の感情などを持つも恥かしい彼が、自分の親友に抱いた嫉妬の感情ではなかろうか。そうして彼は僅《わず》かばかりの考えと僅かばかりの感受性とをもって、幻の表現に過ぎないこの人間生活のなかから、あらゆるものを見た目だけで確実なものであると見取ったこのことを、彼は恥かしく思いはじめた。彼はものの影――言葉の言葉、動作の動作――を見極められないことを情なく思った。彼は重々しい霧のなかを彷徨《さまよ》うているかのようであった。突然、彼は人の歔欷《きょき》を耳にしたように感じた。その歔欷は何処《どこ》からともなくかすかに流れてくるともなく彼自身の胸のなかへ深く泌み込んできた――彼はただ一人|淋《さび》れはじめた秋の末の庭先の縁へとりのこされていた。親友は彼一人をそっととりのこしてそこを立ち去っていた。――そのことに気づくと、彼は自分が噎《むせ》び泣きしているのであると思うより外はなかった。彼は自分の噎び泣きさえ感じないほどの反動的の静寂のなかへ浸り切って、無意識のうちに噎び泣きしていた。

     *

 彼が東京のイルミネイションを見なくなってから二週間以上にもなっていた。彼のいま住んでいる町――東京に接続した西北の町は、秋の荷の往復でせわしい。遠くの森の色は色|褪《あ》せはじめた。秋の季節も過ぎ去ろうとしていた。そうしてこの間にあって、彼は田舎の母親へ数回手紙を出しそこねた。――身のおちつくまでお待ち下さい――というのが、彼の母親への文面の主要なるものであったが、しかし彼にはどうしてもそのことが書き流せなかった。そのうちについ書くことが消えてしまい、そうしてとうとうそれは忘れるともなく全く忘れ果《はて》てしまった。


 ―――――
 私には悲しく思われます。あなたが決して嘘を申されたとは思いませんが、此度《このたび》あなたのなされた態度は無情なものです。私は親切を売物にしたのではありませんが、すべて水の泡となって消えたのでしょうか。善は急げとか申して居ります。一刻も早くお話のこと実行なされては如何《いかが》です。母上からは三度程お手紙がありました。……
 ―――――
 彼は横に腹這いながら美角夫人からの附箋づきの手紙を読んでしまって、思わずも……――これは全く――……と、訳の解らない一種の不快をおさえるかのように、彼自身へ言ってみた……――おれは母の信用を質入したようなものさ。ところで、まだその期限は切れそうにもないぞ。――……
 彼には最早自分の母親を呼び寄せるだけの望みも楽みもなくなっていた。彼の心も身もともに、闇が冷たい風とともに狂おしくひしめき合っているそのなかに彷徨《さまよ》うているかのようであった。

     *

 ―――――
 南と北から家屋が建てこめているため、常に日光に遮られている薄暗い道路の行当りに、芥溜《ごみため》が見える、そこにミノルカではないが大きな黒い一羽の鶏が餌をあさっている。彼はそこを目当に歩いている。そこまではかなり長い道程があるらしい。左右の家は書割舞台ででも出来ているかのように、絶えず震えている。歩いている彼ははたと立ち悩んだ。彼の足元には五銭白銅貨が、一ツ、二ツ、三ツ、四ツ、……十一、十二、十三と数えただけおちていた。鈍く光って彼の瞳をひいた。彼はその白銅貨を拾おうともせずに、頸《くび》を傾けながら歩きはじめようとした。その時彼は芥溜の方へ向って、左手にあたる一軒の屑物屋を見つけた。蒼白い顔の小娘が障子の穴から戸外を覗《のぞ》いていた。彼は彼女をちらりと一瞥《いちべつ》した。彼はびっくりした――この瞬間、彼の暁の夢は音もなく影絵のように崩れて消えてしまった。
 彼はひょっこり夢みたこの夢を余り気持のいいものとは思わなかった。十三個の
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