めているのかと訊ねられたところで、彼はその時即座に応えられはしなかったであろう。

 その日彼は自分の書物を二冊売り払った。その金で、彼は二杯のコーヒーと一皿の菓子と夕飯を食べた。彼は愉快であった。彼は清新な気分を味った。
 そうしてその翌日も、その次の日も……彼は自分の書物を二冊ずつ売り払った。――そうして彼はこの生活を出来るだけ永く続けようと決心した。彼には新らしい感興が湧きはじめた。彼は生活するということを感じはじめた。そうして彼は好んでストーヴの設けてある飲食店を求めて、町を往来した。
 ―――――
 あの男はいつも今時分に見かけるが、なんと変な様子をしていることだろう、あの歩調を見給え、あれは土を踏んでいるのではない、空気を踏んでいるのだ、見給え、口笛を吹かないだけが似合わしくないよ――
 あ、あの男だ、それ見給え、ブラッシをかけた線がみえるね、それ帽子にまで……ところで、あの不恰好な不自然な元気のいい足どりを注意し給え……それにあの氷のような顔を見てみ給え――
 彼はあらゆる場所で、こんな言葉を人人の顔からも眼からも、自分の胸のなかへ感受した。

     *

 彼が青沼
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