有頂天で、彼は美角夫人の先刻の微笑と涙とを幻にすら見た。しかしこの幸福と称んだものは、彼自身が満足した誇りであったろうか。
……………
彼が舌を咬《か》みしめて、三百四十円と書かれた小切手を目にした時、彼女の顔は明かに微笑むともつかず、かすかに歪められていた。そうして彼女は、低い聞きとれないぐらいの声で、その小切手を指差しながら、この余分は彼女の贈りものとして受けて置いてほしいと言った。彼は軽く頭を下げて、直ぐその座を去った。彼女は玄関まで送り出てきて、閾《しきい》に両手をついたまま彼が門を出てしまうまで、彼の後ろを見送っていた。いま彼には彼女のそんな様子がまざまざと見えるような気がしてならなかった。そうして彼女は、「あの男は何をあんなに喜んでいるのだろう、あたしにはその訳が解らない!」とでも考えている様子であった。この考えが彼の気持であるだけ、それほど彼は訳もなく有頂天になって、その帰りには足早にしかも軽々しく歩調を乱していた。
「では御機嫌よう!」
彼は門を出てしまうと後ろを振向かずに、小声で囁《ささや》くように呟いた。
……………
その夜、彼の胸は、有頂天に乱れてはいた
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