倫理家の妄語に苦しめられてはいない。しかし彼は自分へ対する言訳には、抵抗出来なくなっている。否、それはちょうど、偶然の出来事か、記憶を去ろうまいとする考えかが、いずれにしても一瞬はそれらの生命を保って、人間精神のなかへ、一生に一度ぐらいは巣喰うてみようとするその輪廓のない生物によって起させられる或印象と等しい価値を持っているものであるかも知れない。しかしそんなことはもうどうでもいいことになっている――……雨! 雨! 雨よ降れ、降れ! あの兇鳥が吐き出すおれの悪口を土のなかへ葬むるように強く降れ! おい、追放された憐れな雨!……――彼は雨が彼自身ででもあるかのように呟いていた。――……お前はいま涯しない虚空を失おうとしている。悲しんでなどはいまい、そんなことなどはあり得るものか。気儘《きまま》勝手に自由な跳躍を恣《ほしいまま》にするにいい雨ではないか。お前の見えない脚で何にもかも蹴散らしてくれ、思うさま叫んでくれ! 虚空さえ掴《つか》み損ねて呻吟《しんぎん》しているおれのために!……――そうして彼は彼自身の心臓を虚空へ掴み出して投げ捨てたかのように藻掻《もが》いた。その投げ捨てられた心臓
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