つけているなじみの場所である。そうしてたった今、彼の歩いている左手には、二軒の葬儀社が店を構えている。しかしいまはそこが見えない。そうしてその一軒の大きい方の店頭には、いつも一匹の黒斑《くろぶち》の猫が頸《くび》も動かさずに、通りの人人を細目に眺めながら腹這《はらば》って寝ている。彼はその猫の鳴き声を聞いたことがただの一度もない。若《も》しかしたなら彼女は※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《おうし》かも知れない。たとい彼が路傍の一人の男としても、そうたびたび歩き合わせているうちには、一度ぐらい彼女の鳴き声を耳にしてもいい筈である。そうして必ず日に一度、彼はその店の筋向いの三角卓子のあるカフェのレコードに聞き惚《ほ》れて、そこに立ちつくすこともあるからには、その猫の声を味わっていなければならない。
彼は常に思い惑うていることを、またしても気に病むまま想い浮べているうちに、一軒の古本屋の前を通り過ぎていた。赤い電球が電柱の蔭に見え隠れして、歪《ゆが》んだ十字架のような岐路の一方に、ひとり夜の心臓のように疼《うず》いている。その標的は交番所である。彼は急に足早に歩調を刻んだ
前へ
次へ
全91ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
富ノ沢 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング