だカフスボタンを失ったと思えばいやな気持になった。部屋じゅうを見たところで落ちてはいない。それとも途中でおとしてしまったのであろうか。それにしては余りに物足りない。こう考えたからと言って自慢になるものではないが、若《も》しかしたなら彼は疾《と》うにあの郵便局へ闖入《ちんにゅう》していたのかも知れない。彼は自分の心にはそんなことのなかったように肯定させて置いたにも拘《かかわ》らず――それとも若しかしたなら彼自身ではない別の人が、彼の胸のなかをすっかり読み知っていて、彼が決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。そのためにその人は、彼のカフスボタンをいつの間にかこっそりと盗み取ったのかも知れない。そのボタンがその人に必要なことは疑いもないことである。その人は彼自身が考えた盗みをするために彼のカフスボタンを盗んだ。そうしてその人はカフスボタンを故意に犯罪の現場へ捨てる心であろう。すでにその人はその盗みをしてしまったかも知れない。その人とは誰であろう? あの若い警官であるかも知れない。警官であろうと、盗みをしないとは限らない。警官などはうまい口実を見つけるにいい境遇にある。それとも彼自身の第二体が、彼の決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。その時、そのドッペルゲンゲルは彼自身である本体には知れないようにと、余り急ぎ過ぎたので、カフスボタンをうっかりしているうちに、現場へ取りおとしたのかも知れない。それとも彼等は彼のこうまで落魄《らくはく》している境遇へつけこんで、同盟して彼一人を奈落の底へ突きおとすのであるかも知れない。そうして彼はたった一つのカフスボタンのために、冤罪《えんざい》の悲運に陥るのであろう。それにしても先刻、あの警官の睨《にら》んだ眼はなんと怕しいことであろう。その眼光は、或《ある》確さを持っているのみでなく、更に人の心を射るような或もので輝いていた。それは警官を注意してみる者にとっては、或不安であると同時に冷淡の表示でもある。あの眼は、単に夜中ただ一人、路傍を歩き廻る者を穿鑿《せんさく》吟味するだけのものではない。あの眼の底には、隠れた意味が含まれている。警官とそれを見る者の相手との外には、解らない謎が含まれている。その説明は、事実が暴露しない以上第三者の誰にも解らないのである。しかしその二人だけなる者は、一人の警官を中心にして幾十人幾百人おるか知れない。そうして彼は、恥かしいながら、そのうちの一人であると思ってみてもいいのであるが、すでに行われてしまったかも知れないその犯罪には、何らの関係もない。否、しかし虚空のなかへ徐《おもむ》ろに流れ込んで行く水の響のようなざわめきたつ事実は、全然彼自身に関係のないことでもない。彼は自分で盗みを考えたが、何者かはっきりと解らない者が、それをものの見事に盗み取った。その人は彼の考えを横領してしまった。その人は彼の盗心を盗み去った。そうして彼は二重に苦しまなければならなくなった。何故であろう? その人は彼自身のカフスボタンを竊取《せっしゅ》してしまったから。
この苦悩は、彼の脳裡のなかへ黒雲の旋風を捲《ま》き起した。彼が予想するすべては、彼自身の最期を感じさせる。電燈などは点っていても消えていても一向差支えなくなった。そうして怕しい静《しずけ》さは室内に溢《あふ》れはじめた。その静寂のうちに彼を見張っている何者かが潜んでいそうである。その者は彼の心臓の動悸を数えている。彼は自分がもう堪えられなくなった。
彼は立ち上ると蹣跚《よろめ》いて行って、北窓をがらりと開けた。その刹那《せつな》、彼の躯は、ひやりと夜の空気に打たれたと同時に、何ものかにナイフででも切られたかのように掠《かす》められた。彼は眼が眩《くら》んだように感じた。その時、彼はその何者か解らないものは、いままで部屋のなかに潜伏していた一人の陰謀者の輪廓のないたましいではないかと思った。彼がこう思えば当然であると会得出来る。しかしこれは莫迦《ばか》莫迦しいほど無智な表白ではなかろうか。ところが、この無智こそ人間に対する一つの威嚇《いかく》である。この愚鈍と交流してこそ人生は荘厳になるのである。何故なら、自己の絶えない失脚は、自己の実現に無駄骨を折っているから。若しも――彼は考えつづけた――一流の賭博《とばく》者は、素人《しろうと》である相手に、現金を山と積まれて勝負に熱中したところで、その札の山を切り崩して行くことは出来ない。この羅針盤の紛乱こそ人間の胸のなかへ挑まれる内心からの抵抗の動乱である。この電流と稲妻との焦噪は、物理学上の実験とも合致する。これは兎《と》も角《かく》として、人間が自分一人で自慢出来るようになるのは、あの奇妙に角張った威嚇が存在するために外《ほか》ならない
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