わ》てない態度で部屋のなかを見廻した。部屋のなかの疲れたような静寂は、急に室内の壁の表面へ喧噪《けんそう》な響を波打ちはじめた。彼は歩き廻っていた。
 彼は捕えられて法廷へ引き出される。彼は考え続けた。そうしてその裁判の結果、彼は七年ぐらいの刑を受ける。こんな凡俗な智慧を誰が彼へくれたのか。こんな放肆《ほうし》な精神を誰が彼へ授けたか。こんなものと無二の仲間になるように誰がしたのか。この不幸な考えは、彼を三倍も四倍もの苦みに悩ませる。しかし彼はこの親密な関係から離れることが出来ないのである。彼の人生へ対する役割は、こうした薄命な悲惨と煩悶《はんもん》との桎梏《しっこく》であろうか。彼はしばしの慰安もこの世に持てない。彼は文字通り本当に棄てられて途方に暮れている。否、彼は人生から放逐されてしまった。それというのも、彼自身の艀《はしけ》が大船に寄りそこねたその反動で、彼は艀のまま押し流されている。戻るに戻れない羽目に彷徨《さまよ》うている。嘗《かつ》て彼は神のような心を持っていたが、捉えるべき機会を捉え損ねた。そうして彼は自分自身にすら予想されずにいたその割当てられた役を、後生大事に演ずる機会を永久に失ってしまった。それともこうなったことが、彼自身の役割であったのであろうか。果してどうであろうか。
 それに彼が貧乏に見舞われてからは、一層外部との調子が不和になりはじめた。そうして彼の一人の親友を除いた他の債権者は、彼をあらゆることで侮辱した。彼はあらゆる誘惑の罠《わな》に嵌《はま》って呪《のろ》われてしまった。彼自身は不義者であり、悪徳の保持者でもあるかのように言いふらされた。心ある人間であったなら、疾《と》うの昔に自殺していた筈であるとさえ言われた。
「自殺!」
 彼はこの言葉を幾度か彼自身の胸のなかへ叫び返した。そうしてこの精神の力を実感に求めようと藻掻《もが》いた。彼には自分で無限の力と信じていた、このことが出来かねた。しかし彼は他の人人が毒薬や兇器で自殺したように毎秒毎分、時という輪廓のないもので自殺していた。――否、自殺した。そうして彼のこの考えは、友人を訪問している最中とか、散歩の折とかに、奇妙にも失恋の反撃のように飜《ひるがえ》ってしまうのであった。
 彼はこの自殺の考えから連想される彼自身の本能が、直ちに一種の熱情に変えられることを感じた。これは彼が人間生活へ対して知り得た最初の熱情であった。彼はこの熱情のために自分の躯《からだ》が、希望で心から顫《ふる》えるのを知った。しかし彼自身の周囲には、一種の羨望《せんぼう》と卑屈と冷淡と臆病とで組合せられた多角型の隠謀が散在していた。彼は自分の息を吐くにいい生活のなかに、かくも重苦しい重荷の存在のあることを知った時、溜息の生活に過ぎない彼自身の生活を充すものは何一つなくなってしまったと思った。彼の熱情は、一瞬の閃《ひらめ》きすら耀かさずに消えようとしていた。彼は神のような心を抱きながら、或機会をとり逃がそうとしていた。しかし彼は自分の内心を疑えなかった。そうして彼は何らの懸念も危険もなくなるに違いないと知った。彼は宗教を知らない、思想を知らない、これらの相手になれる彼自身ではない――
「おれが相手として望む者はおれ自身に外《ほか》ならないではないか!」
 彼は血の滲《にじ》み出るように叫んだ。この時、彼自身の内心は決定した。彼は自分の胸を平手打ちして悦《よろこ》んだ。しかしこの悦びとても、瞬間にしてその小波《さざなみ》を曳《ひ》き去ってしまった。同時に彼は自分で自分を揶揄《やゆ》しているのではないかと疑った。そうして彼には自分の考えと感情とが、毒悪と憎怨とに制限されているのではないかと、呪《のろ》わしく思われないこともなかった。そうして彼は虚無的な憤恨を抱いているかたわら不正型な意志を持っていることを知った。
「とうとう遂行した?」
 彼は他人の言動のことのように自分自身を振り返ってみた。そうして彼は徐《おもむ》ろに巻煙草へ火をつけて喫《の》みはじめた。彼の考えは吐き出される煙草の烟《けむり》のように渦巻いた――彼は刑事に尾行されている――彼は郵便局の現金を盗み出したのであろうか。否、決してそのようなことは全然ない筈である。それにしても彼は自分自身が怕《おそろ》しいと思った。彼は妙な気持からこっそりと部屋じゅうを歩いた。そうしてかなり苛立つ気持が落着いたと思った時、彼は服を脱ぎはじめた。彼はワイシャツを脱ごうとして、右の方のカフスボタンが紛失しているのを知った。きょう、彼は他人と喧嘩《けんか》はしなかったし、また酒を飲みもしなかった――こんなものの相手になれる彼自身ではない――それなのに、どうしてこのボタン一つだけが見えなくなったのであろうか。けさ、ちゃんと嵌《は》め込ん
前へ 次へ
全23ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
富ノ沢 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング