あめんちあ
富ノ沢麟太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)掩《おお》いかぶっている

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)見|馴《な》れすぎている

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔de ne pouvoir e^tre seul.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 彼はどっしり掩《おお》いかぶっている雨催いの空を気に病みながらもゆっくりと路を歩いていた。そうして水溜のように淡く耀いている街燈の下に立止るたびに、靴の上へ積った砂埃《すなぼこり》を気にするのであったが、彼自身の影さえ映らない真暗な路へさしかかると、またしても妙に落着きを装うて歩きつづけるのであった。
 彼がようやく辿《たど》り着いたこの路は、常に歩きつけているなじみの場所である。そうしてたった今、彼の歩いている左手には、二軒の葬儀社が店を構えている。しかしいまはそこが見えない。そうしてその一軒の大きい方の店頭には、いつも一匹の黒斑《くろぶち》の猫が頸《くび》も動かさずに、通りの人人を細目に眺めながら腹這《はらば》って寝ている。彼はその猫の鳴き声を聞いたことがただの一度もない。若《も》しかしたなら彼女は※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《おうし》かも知れない。たとい彼が路傍の一人の男としても、そうたびたび歩き合わせているうちには、一度ぐらい彼女の鳴き声を耳にしてもいい筈である。そうして必ず日に一度、彼はその店の筋向いの三角卓子のあるカフェのレコードに聞き惚《ほ》れて、そこに立ちつくすこともあるからには、その猫の声を味わっていなければならない。
 彼は常に思い惑うていることを、またしても気に病むまま想い浮べているうちに、一軒の古本屋の前を通り過ぎていた。赤い電球が電柱の蔭に見え隠れして、歪《ゆが》んだ十字架のような岐路の一方に、ひとり夜の心臓のように疼《うず》いている。その標的は交番所である。彼は急に足早に歩調を刻んだ。この時突然、彼には二間とは間隔のない路巾《みちはば》が、彼自身の躯《からだ》を圧《お》しつぶすように、同じ速度を踏んで、左右から盛り上り盛り上り逼《せま》って来るように感じられた。彼は右へ曲ろうとするはずみに、ちらりと交番所のなかを窃《ぬす》み見した。鬚《ひげ》のない若い警官が、手にペンを握ったまま入口へ乗り出して、彼の様子をじっと※[#「目+嬪のつくり」、170−下−17]《みつ》めていた。彼の瞳には、開かれたままの白い帖簿が映った。彼は瞬間に心持ち歩み悩んで、その足並みを崩さず、交番所に隣接した郵便局へ心を向けていた。
「金……金……金……」
 彼は胸のうちで呟《つぶや》いて、後ろを振り返ってみた。警官の土龍《もぐら》のような眼は、突き出る首とともに彼の後姿を追うていた。彼は自分が踏み早める靴音に驚いていた。そうして彼はまっしぐらに路地から路地を潜《くぐ》り抜けながら、墨色の深い杉森の寺院のなかを縫うて、ようやく煙草《たばこ》店のある路地へ忍び込み、そこから宿の前へ跫音《あしおと》を止めた。
 この宿の戸は夜中でも錠の必要がないほどやかましくがたつくので、彼はその開閉のたびに宿の人人へ大へん気の毒な思いをする。それにいまは決して必要もなさそうな振鈴が、軋《きし》む戸とともにその倍以上も鳴り響くので一層気がひけていらいらとさせられる――しかしいまはそんな臆病な気持に捉われていてはいけない。絶対絶命の時ではないか。どんな種類の犯人でも、一度は逃げのびられるだけは逃げのびたいと願うものである。たったいまの彼の心もそれと少しの変りもない。交番所に隣接した郵便局には、女事務員が四人も働いている。そうして彼女等に雑《まじ》って一人の老人がいるに過ぎない。そこで、彼は夜中こっそりとこの郵便局へ忍び込んで、金庫をねじあける、そうしてそこにある金銭をみな持ち出す。これがうまうまと成就すれば、彼はこの金銭を自分の部屋の火鉢の灰の底へ掩蔽《えんぺい》してしまう。この思いつきは、彼にとっては一つの誇りであるとさえ思える。そうして彼はそしらないふうを装うて小金から費い出す。彼が先日以来気まぐれに考えていたことを、あの鬚のない若い警官がちゃんと飲み込んでいる。彼の胸のなかを伝心的に見破っている。警官は彼の考えをすっかりと胸のなかに感じている。彼は怕《おそろ》しいと思った。
 彼は狼狽《あ
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