いる人のように、浅い眠りより外は眠ったことのない彼には、未だに夢のなかに取残されているように感じられた。そうしてあの出来事は、恍惚《こうこつ》として醒めきらないこの苦い快感のなかに、未だに織りこまれている。彼はお柳のことを考えはじめた。彼は怪しく織りこまれたその糸口を手探りはじめた。そうして彼は夢のなかのことのようなその空想によって、しばらくの間を楽もうとした。彼は自分の空想のなかで、お柳とともに話し合うてみたいのであった。――殆《ほと》んど話と言っては互に語り合ったことのないお柳と。――否、彼は自分を奈落の底へ陥れた、彼自身の胸のなかの最初の対象であった相手と話し合ってみたいのであった。そのために彼は自分とその女との間へお柳をさしはさんでみなければならなかった。それが嬉しかった。一層はっきりと彼の瞳へ映ってくるものがあった。十年も以前、彼はその女を愛した。――恋した。しかしその女は、花火のような愛情の閃《ひらめ》きを残して、その家族とともに遠くへ旅立った。彼女の離別の言葉は、彼を悲しませた。そうして間もなくして、その言葉は、彼女のこの世への死別の言葉となってしまった。――その時彼女は一人の少女の母親であったと、少年であった彼は聞いた。彼は花嫁姿の彼女を目前に見たように感じた。その彼の幻想に映じた彼女の姿は、ただ光り輝く眸《まな》ざしが深い印象を残した。そうしてその後、彼は夢のなかで、彼女に逢った。しかしその時、彼女は、その姿の消える瞬間に、朱の色をした顔へ形の大きな真白な眸を現わした。――彼は自分自身が怕《おそ》ろしいと思った。
 そうしてその後、彼の生活は一匹の虫の生活にも値しなくなった。彼は地上を這い廻った。彼は一種の処女機械のような成人になった。極く短い期間のうちに、彼の躯は陰鬱と恐怖と悲嘆との雲に覆《おお》われた。彼は純粋と情熱とを失った。――少年の智慧を失った。――疑惑は彼を捉えた。――そうして彼は、悲しくも彼自身を見失ってしまった。
 ―――――
 お柳が現れた。――あの女と全き「同一性」を持ったお柳は、忽然《こつぜん》として彼の目前を過ぎて行った。――お柳があの女の子としたなら。――年限から言ってもそんなことはあり得ない。――彼女自身?――彼は刻み込むような戦慄を感じた。――お柳とあの女との物柔かな声……蒼白い顔……頬の線……鼻そのものが宿す深い影……冷たく輝く愛情の窓である眼……額《ひたい》……これらの相似はこの世にあり得る暗合であるかも知れない……しかしその表情?――彼はいま寂然としている自分の心へ言いかけてみた。答えはなかった。彼は冬の日の淡い日光の直射から自分の顔をそむけてこの穏和に幸福なしかし淋しくないこともない思い出とその幻想とに耽っていた。彼には自分が何ものかに唆《そその》かされているという考えが湧いて来た。そうして彼の敵が目には見えないところへ伏線を敷いて待伏せしているようにさえ感じられた。しかも彼女という肉体のない幽霊を使って、彼の蜂の巣のように破れた脳を煽動《せんどう》しているようにさえ思えた。そうしてお柳という女を使って、彼女の肉体を再現せしめている。彼は怕ろしいと思った。
「悪魔!」
 彼は思いがけない驚愕に襲われたかのように、床を蹴って立ち上った。彼は獰悪に歪んだ顔を打ちふりながら戸外へ出た。彼は眩暈《げんうん》を覚えた。彼は跛のように蹌踉《よろめ》いた。彼の眸ははじけるように疼《うず》いた。物の色別も出来なかった。頭は叩かれているように痛んだ。そうして最初に彼の眸へ射流れてきたものは、浅く雪に蔽《おお》われた日蔭の屋根であった。彼はまぶしく天空を見上げた。溜息が漏《も》れた。汚く湿った土壌は、遊糸《かげろう》のような日光を貪《むさぼ》り吸うていた。水蒸気がゆらめいていた。
 彼は思い出したようにお柳の家の方を見た。お柳は台所の隅で、立ち悩むままに顔を蔽わずにまた泣きじゃくっていた。お柳は昨夜から泣きつづけていたのであったろうか。
 彼は再び部屋へ戻らなければならなかった。彼はお柳へ向けて湧きはじめた思いやりを殺さなければならなかった。彼は彼女を恐れた。
 ―――――
「お柳は祖父《じじ》さまが死んだので泣いてばかり居ります。」
 その日の夕方、彼は井戸端の会話の一節に、こう言うている老婦の言葉を聞いた。
 お柳の祖父? 彼はついぞその人を見かけなかった。
「永く床についていた人であろう?」
 彼はふと自分の故郷の言葉で、死の意味を現わす言葉を無意識に呟いた。
「床?」
 彼は再びこう呟いて、自分自身を顧みた。そうして彼は彼女の祖父の死よりも、彼女の悲観にも増して、この床と言う言葉に悩まされた。彼は自分の躯が、裂け、破れ、乱れ散るように、悩乱した。そうして彼は、自分が昼も夜も弁《わきま
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