》えずに床に横わっていることを怕れはじめた。
「死ぬぞ! おれは死ぬぞ!」
 彼は死期の間に迫って来ているかのように叫んだ。そうして俺はこの「死」を嚥下《えんか》したかのように、――それは精神を錯乱させながら、徐《おもむ》ろに生物の生命を毒殺するアルカロイドを嚥《の》み込んだかのように、感じさえした。否、彼はこの言葉を自分の敵の毒薬と思った。彼はその敵がこの毒薬を、無理無体に自分の体へ注ぎこんだようにさえ考えた。
 ―――――
 お柳の祖父の葬式がすんで、二十八時間経過した。お柳の姿は、不慮の神隠《かみかくし》に会ったかのように、その家には見られなかった。
 彼は破れた土蔵の立退を申込まれた。それは命ぜられたと同じことであった。彼は怒った。彼は胸を戦《おのの》かせた。一言の返答も出来なかった。しかし彼はついに一両日の猶予を請うて、黒皮カバンを抱えたその男を帰した。
 その夜、彼は何処に入口があるのか解らない宿を訪ねた。その途中、彼にはあの葬儀社の黒|斑《ぶち》の猫も、あの警官の眼も気にはかからなかった。彼はそれほど急いでもいた。そうして彼の内心で強く大きく振子を振っているものは、「床」というただ一語であった。この一語は、絶えず憤恨と憎悪と復讐との重々しい身振りを繰返していた。

     *

 彼は再び下宿生活をはじめた。新鮮な感興は湧かなかった。彼は日夜巻煙草を楽んだ――彼の手の指の内側は、黄褐色の脂で爛《ただ》れてしまった――指の爪は、宝石ででもあるかのようにセピア色に輝きはじめた。そうして彼の胃は、彼を憎み嫌うかのように自ら損じはじめた。
 ―――――
「おれはおれの躯を愛しそこねた……何もかも最後に近づいた……悪口の矢をたてられ……誹謗の疵痕《きずあと》……悪感情の悪戯《いたずら》……侮辱と意地悪……譏誚《きしょう》……嘲笑と挑戦……嫉妬?……嫉妬!……復讐……おれはおれの躯を愛しそこなった……」
 彼が自分へ向って呟く小言は、日に日に同じことを幾回でも繰返すようになった。ただ口に言うより外の言葉は知らない小児ででもあるかの様に――
 ―――――

     *

「きょうはやめる。」
「どうしてですか。」
「それでは……君の言いなりでは、物の道理に合わない……」
 彼は言い切った。
 ものの二時間も費して、さんざんに取散らかした書籍をかたづけようともせずに、古本屋の主人は帰った。
 彼はきょう古本屋の主人を呼び、書籍全部を売却する考えであった。そうして彼はその金で何処へか旅行するつもりであった。ところが彼には古本屋の主人の言うことが一一癪に触った。本屋は流行の本ででもなければ価値がないと思い込んでいる。この売れゆきのことは別としても、書物を手に持ったか持たぬさきに、直ぐ無造作にそれを投げ出す本屋のしうち[#「しうち」に傍点]に、彼は腹をたてた。彼は内心怒った。彼にはその様子が見ていられなかった。ちょうどそれは指一本ずつ切って捨てられるような苦痛であった。それに三十前後のその主人は、一ことごとに変に語尾を長く引きながら、へ、へ、へと笑う。その笑いを飲料物のように飲みこんでから、にやりと顔全体で笑う。反古紙《ほごがみ》のような顔。彼はその顔に嫌悪を催した。大方はこんなことで彼は一切その申出を受けつけなかった。そうして彼は肉眼には見えないものの声に耳を傾けた。
「君はおれを忘れたのか――
「それは忘恩というものだ――
「おれは十分君を憎む――
「それはおれを愚弄したことになる罰だ――
「おれは十分君を憎む――
「おれは冷たい吹息を吹きかけられたところで、決して曇るようなものでないからね……ま、君の燃えかけた蝋燭のような心を憎む――
「おれは懇願するのではない――
「君の態度はよくないと忠言する――
「壁の表にぶらさがっている時計へ向って欠伸《あくび》ばかりしている君は、くたびれて飛べなくなった鳥のようなものだね――」
 取り散らかされた書物は、一一彼へ話しかけていた。彼は途方に暮れた。そうしてそれぞれの声は、ちょうど同一の音調を打ちつづけて、何処まででも進んで行くいろいろのキイででもあるかのように、それぞれのおしゃべりをつづけていた。そうして彼は、人間の音声を聴くことを奪われた永遠の島のなかの人のように人間の言葉を聴き得なくなった。人間の言葉を忘れてしまった。

     *

 或日――
 親友の青沼白心は、突然にひょっこり現われた猫のように、彼の下宿を訪ねた。親友は大へん落着いた調子で話しはじめた。しかし彼には、親友の喋《しゃべ》っていることが一体何ごとであるか少しも飲みこめなかった。
「で、君は是非とも浦和博士に面会してみるのだね――」
 いつの間にか彼の耳はこんな言葉を捉えていた。
「浦和博士?」
 彼は彼等の会
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