は自分の部屋のなかへひしひしと襲いこんでくる寒さを身震いしながら感じた。たったいま、そんな寒さが急に自分の部屋を訪れて来たかのように、彼は大へん迷惑にさえ思った。そうしてそれからの目に見えないものどもは、彼の部屋の唯一の楽しみでもあり、夜の話相手でもあるランプの光の周囲へかじかみながら遠慮会釈もなく集い寄った。――その時の彼の身震いは、あながちその寒さのためばかりではなかった。彼は自分の敵を自然現象のそんな一つにも空想してみたから――彼の敵――彼は最早その一種の圧迫を空想の仲間にはして置かなかった。
「敵の襲来?」
 この奇異な神経発作を、彼は自分が彼自身によって弄絡されている病魔と思わないこともなかった。しかし彼は――おれの敵はおれの油断を見すましているからには――と、自分の心へ向って、注意を怠らせまいとした。そうして彼は自己催眠にでもかかっているかのように、何ごとにつけても、自分自身へ向っては、――「おれの敵」と言い含めてしまうのであった。
「おれの敵。」
 この言葉は彼の口を離れなかった。そうしてこれは、彼の極く不健康な折の神経的の悪気体であって、彼の日常用いている器物へ附着し、時としてそれが極偏性の感応を作用しながらふとした機会で彼の皮膚へ触れ、何ごとか奇妙な副作用を起しているもののようであった。それは神経的と言うよりも寧《むし》ろ肉体的のものであった。肉体的憂鬱の圧迫を鼓動していた。その波動が拡がるにつれて、すでに滅亡しているも同然な彼の心臓は顫《ふる》えた。何らの反動も起らなかった。しかしその虚ろな心《しん》の臓のなかでは、目に見えてない盲目的な颶風《ぐふう》が疾駆し廻っていた。
 こんな時、彼は自分を奇妙な気持でいたわりながら、華かな群集の一団でも眺めるように、瞬間的にではあるが彼自身を顧みて呟《つぶや》くのであった。
「この不幸!」
 この次にきっときまって叫ばれる言葉。
「何? 破廉恥《はれんち》漢、泥酔漢!」
 彼は訳もなく罵《ののし》っている自分の声のない声を聞くのであった。彼は意味のないものへ意味をつけて、非常に不快な気分に襲われていた。そうして彼は自分を折檻する自分の敵は、すでにその陰謀を暴露したとも考えた。彼は危険の近づいていることを嗅ぎつけたとも考えた。――それは灰色の影ではなかった。それは儚《はかな》く感ずる成長しかけた夢ではなかった。それは不規則な連想ではあったが、彼の胸を目がけて、死の烙印をおしつけてくるものであった。彼はそれから逃れることを考えなければならない。
「死?」
「死!」
「偽《いつわり》ならぬ真実!」と、東洋の詩人が謳《うた》ったそのことが、彼には賞牌《しょうはい》の浮彫でも見るように、手探りの敏感さで、自分の皮膚へ感じられたように思えた。その賞牌の表面へ堅牢に浮き上っている線! 彼には、その線を指先ででも触れながら楽しむように、言葉で呼ぶ死というものが大へん興味をもって眺められた。しか彼は自分へ向って、その死という連続的の真実を見たことがなかったとは言わなかった。その死の自存を感じなかったとは言わなかった。また屍灰から生れ屍灰のなかへ没して行くその死を知らなかったとは言わなかった。そうして彼には、その死というものが一種の生物で、しかも死自身はまさしく殺生鬼であると思えた。この殺生鬼は、空想から現実へ、足音もなく忍び寄ってくる。この死は、大股に濶歩《かっぽ》して、あらゆるところを歩き廻る。死を背負うた人間。この殺生鬼は、彼の胸のなかへ、真昼の幽霊のように、姿もなく巣食うてしまった。
「死を珍客として歓待する者が、この世に幾人あるか。」
 彼は底知れない神秘な真実に逐いまくられて、不意にこんなことを呟いた。彼は思うさま、自分の声を揺って笑ってみようと決心[#「決心」に傍点]したのであった。――この瞬間、何ものかの啜泣《すすりな》く響が、彼の耳もとをとぎれとぎれに過ぎていた。そうして屋外は恐らく雪が降っているのであろう、さらさら、さらさらと軽いこまかい音がしている。どっしりした空気その物の重みのような淋しい沈黙が、彼の体全体で感じられた。軽く緻《こまや》かに雪が降っているのであろう。そうしてそのなかをとぎれとぎれの啜泣が伴奏している。彼は耳をそばたてた。ものの十秒とも経たないうちにその啜泣は波打つ歔欷《きょき》と変った。――慟哭《どうこく》の早瀬となった。――
「お柳……?」
 彼は自分の声でびっくりした。
「お柳が泣いている……おれに部屋を借してくれたお柳が泣いている……」
 ―――――
 彼の部屋(土蔵)にただ一ヶ所より外《ほか》はない窓から流れこむ日光は、彼の顔へ軽くじゃれついていた。彼は日脚の擽《くすぐ》りで睡《ねむ》りを醒《さま》した。しかし悲しい荷物を背負って旅歩きして
前へ 次へ
全23ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
富ノ沢 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング