のなかへ叫びかけた。しかし彼はもじもじしている彼女の態度を見守っていた。彼女は無言で立ち上った。彼女は庭へ下りて戸外へ出た。そうして彼へも跟《つ》いて来るようにと、その身振りで示した。彼は彼女の背を逐うた。彼等二人は、上半身を斜に捩《よじ》って、ようやく通れるぐらいの路地を潜《くぐ》り抜け、余り広くもないその裏の広場へ出た。そこには先ずありそうに思える井戸があった。その傍には崩れかけた小さな土蔵がひしゃげて立っていた。そこは彼女の家の裏口に当るところであった。
「ここはどう?」
彼女はその土蔵の戸を開けながら言った。枢《とぼそ》は砂を噛《か》んで軋《きし》った。彼は開けられた戸口から内の様子をひとわたり覗いてみた。がらん堂でしかも淋しく黙した内部は、彼の薄れている瞳を迎えた。そこは外見よりは綺麗でもあった。
「明日から来ます。」
彼は低い調子の嗄《しわが》れた声で言った。
―――――
青沼は影佐が明日一人で転居するということを聞いた時、黙したまま頸《くび》を振って点頭《うなず》いた。そうして青沼はペン軸を読みさしの書物の間へ挟んだ。親友は何か物を言いたげであった。彼はしずかに部屋を去った。月が昇っているのか、ただ閉めてない廊下の上はほの白く灰色に鈍っていた。そこを踏む彼の足裏はひやりと冷気を感じた。
*
彼の自由な生活は冬と春との境のように活気づいて来た。八畳敷ぐらいに見えるその土蔵のなかに、彼は床を敷いたまま枕元には――「宝石培養法」――「毒人参《ヘムロック》」――シュワルツ・ホフマン博士が、人間の影を水銀のなかへ保存したことを書いた、「灰色のスフィンクス」――その姉妹篇とも見える、「影人形」というのは、ヘレナ・ベルベルという旅行好きの伯爵令嬢が、或廃墟となった古城の壁のなかから抜き出して来た人間の影と交渉する小説である。――「ヴェラ・リカルド夫人の橢円形の指輪」という、これはヴェラ・リカルド夫人が、アフリカ探険に行った良人《おっと》に死別して、間もなく再婚するその結婚披露式の夜、或未知の外国人から貰った橢円形の指輪の怪奇的物語で、ちょっと見ると宝石のようなその橢円形のもの[#「もの」に傍点]は、実は獅子《しし》の生きている右眼が嵌込《はめこ》んであるというところから、その物語は二百頁も続く。――「声論」という題で、紀元前二百年頃のアンセルムと呼ばれた哲学者の研究した、我々人類その他の生物及び無生物の音声、音響、即ち「声の行方」に関する論文――それから人の口の端によく言われている、「カアバスのカアレンダアス」や「カアマシャアストラ」や「十万白龍」――等その他数十冊の書籍を積み重ねてみた。これは一つには、屏風《びょうぶ》代りで風を妨ぐのに役だった――彼の部屋の空気は、これらのもので怪しく顫《ふる》えていた――そうして彼は、なお自分の手のとどく限りのところへ水差や煙草や鑵詰等を並べてみた。
―――――
[#ここから1字下げ]
, , ,
Itself,
by itself,
solely ONE everlastingly
and single
, , , , , , , , ,
Ce grand malheur,
〔de ne pouvoir e^tre seul.〕
, , ,
[#ここで字下げ終わり]
時として彼の部屋は、故人の書籍から忍び出て来たと思える文字で、深夜のシャンデリヤのように奇妙に寂しく戦《おのの》きつつ輝いた――そうして彼はそれからの幽霊を相手にして楽みに耽った。
そうしてこれらの文字の幽霊は、おや! おや! と飽きれ果てるほどの蝶や蜂のように入雑《いりまじ》り、入乱れて飛び廻るかと思えば、不意に家のなかへ舞込んで来て驚き廻っている小鳥のように、彼の部屋のあらゆるところを飛び廻り、ついには食器のなかへまで飛びつき這い廻った――それはちょうど、歓喜とか恐怖とか死とかの極印のようであった――蝙蝠《こうもり》のように、何処から現われるともなく、何処へ消えるともなく、ひらひら、ひらひらとファンタステックに明滅していた。それは最初こそ、彼には楽しい想像の接穂《つぎほ》としても親まれたが間もなくするうちに、それは怕《おそ》ろしい恐怖の予言のように思われはじめた。そうしてそれは、呪文の影でもあるかのように、彼の脳のなかへ射込《さしこ》んで来た。
「おれの敵は姿を変装して来た、ちょっと油断をしているうちに!」
こう思いながら、彼は自分の眼を四方へ見張った。
*
「雪だろう!」
「雪だろう!」
或日の夕方であった。――
ひょっこり彼の耳へ、こんな会話が表口の方からひびいてきた。
「雪だろう?」
彼はうっかり寝床のなかで呟《つぶや》いた。そうして彼
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