白銅貨は、期せずして彼自身の悪い兆を予告されたようなものであった。しかし彼は奇妙な興味を唆《そそ》られない訳でもなかった。
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その日の午後遅く、太陽がまだ空に輝いていたころ、彼は自分の親友の家へ来て以来、はじめて外出する気持になった。
彼はそのへんの医者ではないが、人力車に乗ってみたいと思った。大たいこの考えは何処《どこ》から湧いて来たものか、彼自身にも解らなかった。それにしても妙な思いつきであると思った。これはてっきり彼が未だに暁の夢に憑《つ》かれている証拠ではないかと思われないこともなかった。彼は車へ乗ることを止めてしまった。
彼が半ヶ月も前まではよく歩きつけていたその通りへ彼自身の姿を見つけた時、彼は一種の暗示にかけられているのではないかと思った。その瞬間、彼は突然に思い出すことがあって、自分の路をもと来た方へ引き返した。そうして彼はいままでに一度か二度ぐらいは通り合せたことのある、その裏通りの密集家屋へ誘いこまれて、一歩毎にめりこむような路上を足早に過ぎて行った。彼は自分が逃れているという気持に逐いかけられていた――彼の行手は不意に妨げられた。母の手を離れた小児が路傍へ這《は》い出て来て泣き叫んだ……と、彼の靴は地面を離れなかった。彼は※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いた。その刹那《せつな》、彼の目前には、色あざやかに影絵のようなものが浮動した。頬のこけおちて、瞼のたるんだ、見るからに生気のない若い男が、無意識というよりも故意に、彼の足元を塞《ふさ》いでいるその小さな人の子を撮《つま》みあげて、傍の溝のなかへ捨てようとした。彼は躊躇《ためら》いがちに、その男を掴《つかま》えた。同時に彼は徐《おもむ》ろにその小児を拾いあげて、途方に暮れた。その時彼の両手でしっかりと支えられていたその小児は、誰か他の人のために無理やりに引きとられていた。彼は驚き以上に戦《おのの》きを感じた。――彼の目前には、今朝、彼が夢に見たと寸分変りない、あの蒼白い顔色の小娘が佇《たたず》んでいた。そうして不潔ではないが色褪せた花形模様の着物を着ている彼女は、いまは泣き止んでいるその小児を抱いていた。
彼は淡い気持から彼女をなつかしんだのであったが、一言も物を言いかけなかった。彼には何事かが予想されるように感じられた。それにしても、あの若い男、あの頬の恐ろしくこけた男、あの瞼の垂れ下った男は、一たい誰であったろうか。一たい何処《どこ》から現れて何処へ消えて行ったのであろうか。こう考えると、彼は自分を嘲弄《ちょうろう》した自分の敵のように、彼自身を嘲弄してみたくなった。
しかし彼は真面目に考えてみなければならなかった――あの蒼ざめていじけきった醜い男は、一たい何者であったろうか。彼自身の敵であったろうか。しかしどうみたところで、あの男は彼自身によく酷似していた。それならあの男は、彼自分のドッペルゲンゲルであったろうか。それにしても、彼は現在離魂病をわずらっているであろうか。兎《と》も角《かく》、あの男は、一たい何の目的で、あの場へ現れたのであろうか。彼を苦しめるためにか。小児を殺す目的であの場へ現れ、その罪を彼へなすりつけるためにか。それならそれは彼の敵の仕業であるに違いない。――こう考えながらも、彼は彼女の後へついて、彼女の家まで行った。彼女の家は、彼の夢とは多少の相違があったにしても――そこは屑物屋ではなかったが――略《ほぼ》相似た様子だった。玄関のない出入口を持っていた。彼女は彼が無断で他人の家へ近づくのを咎《とが》めはしなかった。彼女は彼を振り返ってみた。うちみたところその顔は、十七八にも見えたが、その眸《まな》ざしは小児らしく悲しそうに見えた。そうしてその飾りけのない眸は、見栄えはしなかったが、どことなく気品のある彼女の顔につりあっていた。この様子は真直ぐに彼自身の胸へひびいて泌《し》みこんで来た。
彼は彼女の様子を覗《うかが》いながら、とっつきの障子の隙間《すきま》からそっと内のなかを窺《うかが》ってみた。その上り口から直ぐの薄暗い部屋には、人の動く気配がしたと思うと、力のない咳が彼の耳をコホンコホンと打った。
「姉さん!」
彼女は床のなかの人を呼びかけて、抱いている小児を、その床のなかへしずかに押しこんでやった。
「部屋を借して下さいませんか。」
突然彼は言った。彼は自分のうわべ[#「うわべ」に傍点]を隠さなければならなかった。彼は彼女に対して興味以上の何ものかを感じていた。それは疲れ切った夢の滓《おり》であったかも知れない。彼はこんな滓のようなものにさえ縋《すが》らなければ生きてはいられなかったのであろうか。彼女は当惑した様子で前掛の縁を弄《もてあそ》んでいた。
「帰れ!」
彼は自分の胸
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