めであった。少年期の失恋だ。それ以来おれは天井裏を這《は》い廻る夜の蠅のような哲学者になってしまった。おれは黄金の都会から墜落した覆面のエピキュリアンになってしまったのかも知れない!……」
彼は虚言を吐きつづけて、のたれ死にする倫理学者のように、迷妄の境に彷徨《さまよ》うていた。
――影佐が青沼へ物語った或小説の筋――
「金貨のジャック!」
娼婦達は、夜毎に繰返すこの言葉を胸のなかに呟《つぶや》いて白粉刷毛《おしろいはけ》を動かした。
彼女等のクインは、窓辺に靠《もた》れて、湾内の船舶を数えた。
ダブリンの町とその湾とは、蒼白《あおじろ》い光に慌《あわただ》しい雑音を織返していた。
「仕事着の情人!」
港の娘達は、戸口へ佇《たたず》んで、湾内を渡って来る快い軟風を吸いながら、彼女等の胸へ叫びかけた。
彼女等の母親は、台所で食器を友として立働いていた。
夕方に三十分は猶予のある五月の暮方。
E・E・E――商標。
Fine Old Scotch Whisky――看板の黒い文字は逆に読まれる。
このレストランのなかの卓子に、二青年が座っていた。彼等は、先刻、海岸で互に言い交した言葉を、もう一度、胸のなかからカツレツの皿の上へ吐き出した。
「競争者、決闘だ」
「決闘? 競争者」
「ふむ」
「よし」
「決闘!」
「決闘!」
「今夜、客の前で――」
「客の前で――綱の上で――」
「フレンド・シップ・ダンスの時」
「フレンド・シップ・ダンスの時」
「真剣勝負」
「真剣勝負」
緑や赤の灯は、港町を飾った。舷燈は湾内の潮に浮動した。
場末のサアカスの木戸は開らいた。
ベルが鳴った――真鍮《しんちゅう》のベルであった。楽隊のはやしは子供等の足を調子づけた。
十五銭――サアカスの普通席。
子供等は、母の唇へ粗忽《そこつ》なキスをして、町の方へ走った。
娘等は戸口を去った。
夜は影をひいてひしめき合った。
母船を離れた大小のボートは、陸を目がけて夜光虫のように這《は》い寄った。「金貨のジャック」は娼婦の窓を見上げた。
「決闘!」
ペテロは、胸へ十字を切って、楽屋へ這入《はい》った。
「真剣勝負!」
サルフィユは、楽屋の入口で舞台を覗《のぞ》いてみた。
満員
鯨波
拍子
……………
「どうせ金で買われて行く流《ながれ》の身なんですもの唄いますわ、唄いましょう!」
コールテーアは胸へ両手を組合せた。
「金は肉だ!」
青服は顔を歪《ゆが》めた。
「金は血だ!」
大工はパイプを銜《くわ》えた。
「金は呼吸だ!」
壁塗職人は口笛を吹いた。
「マコトノヨ、ヒトリノオナゴ……」
「嘘だ」
「昏倒せえ」
「地獄へ出てゆけ」
「マコトノヨ、ヒトリネミドリゴ……」
「豚の子」
「尻尾をちょんぎれ」
「ハハノウデ……」
「スカートが燃えるぞ」
「金髪をとれ、その鬘《かつら》だ」
「栗色」
「不快」
「金」
「血」
「肉」
「呼吸」
「ヒッス」
「ヒャア、ヒャア」
「ヒッス」
……………
女は男の前方へ腰かけて、靴下の穴をつくろうていた。灯は柱時計の下に点っていた。部屋は薄暗い。
「あたしのウィリイは……」
「何だと? 勝手にサアカスなどへやって」
男は銜《くわ》えたパイプを鼻の先で弄《もてあそ》んでいた。
「……」
「あいつは好くはならんぞ」
「神様、あの子、ウィリイを守り給え」
囁《ささや》く彼女の膝《ひざ》の上では、靴下の穴が大きくひろがっていた。
……………
「始めた!」
……………
鯨波
拍手
ベルが鳴った――騒音のなかに、ベルは声高く鳴り響いた。
拍手
大太鼓。小太鼓。喇叭《らっぱ》――クラリオネット。タンバリンはブリキのバネ仕掛の汽船のように震える。
アダムの父は後脚を空へ蹴上げる馬の背に威張っていた。いま、彼はミリタリズムの型に熱中している。
「猿!」
彼は剣を抜いた。百花燈に反射した一本の指揮剣は数千の瞳のなかへ閃《ひらめ》いた。彼は無言である。馬は鞭《むち》の響に一段と跳び廻った。その度に将軍の尻尾は服のなかから空へ踊り上った。
……………
「煙草」
「ポケットだ」
開らききらない娼婦の指にはダイヤが閃いた。
鯨波
拍手
「ペテロ!」
「サルフィユ!」
二青年はレースの襞で白く縁どった青い上衣に赤い半ズボンを穿《は》いて現れた。彼等の剣は左の腰に佩《つ》ってあった。
鯨波
拍手
青年二人は高く張り上げた綱の反対の両端に乗って弾動した。
ウィリイは微笑《ほほえ》んだ。
「おれの世界だ!」
彼は意味もなく空を見上げた。天幕の裏が波打っていた。彼は淋しかった。彼がペテロでもサルフィユでもなかったので――彼は騒擾《そうじょう》のなかに咳《せき》をした。
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