のようにコトンコトンと床を踏んで、歩き廻っているのを眺めていた。その背は、彼の眸のなかで、おかしく歪んだり、ふくれたり、伸びたり縮んだりしていた。実際、彼は博士が彼自身の方を振向くのを待ち構えていた。しかし博士はうつむきかげんに床を睥《にら》んで、靴で床を蹴りながら言いつづけた。
「あ、そうそう、青沼君はそう言ってました……で、失敬だが、君の主要なる研究は、何についてでしたか。」
彼は危く、「雄弁なる博士」と言うところであったが、それを呑みこんで応えた。
「宝石です。」
「A GEM」
「A PRECIOUS STONE」
博士は笑いつづけて、窓の外を眺めていた。玄関の太い石柱が見えた。彼は博士の顔を見た。
「ほ、それは大へんな御熱心……ま、考えて置きましょう。ふ、ふ、ふ、ふッふ……」
彼は恥を感じた。……外を歩きながら、彼は非常に恥じたのである。「考えて置きましょう。」彼はこの言葉を考えなければならなかった。倫理学と実生活との間には、萎縮《いしゅく》し疲労した智的のワルツが繰返されている。彼は幻のように飛び廻っている町の人人を眺めながら、こんなことを空想して歩いていた。そうして彼は一つの連想から、思わずも彼自身へ言った。
「A |PRECIOUS MAN《ヤクザ・モン》!」
彼は歩き悩んだ。彼は歩きはじめた。この言葉は彼の心に導かれるもののように、SCRIPT の型で、彼の目前へ浮遊した。
「A'''''
''Precious
'''''''Man.
*
彼の散歩は、その後日を追うて続いた。彼にとってそれは日課であった。――彼の一日は二冊の書物で役立った。そうしてそれらの書物は、何らの思慮もなしに、彼の手を離れて行った。――小言も悪口も悪意も更になく、快活を装う明け放しの老人のように、彼等は気どった足どりで、彼の手から古本屋の手へ渡って行った。
或朝……霰《みぞれ》が糸車のような響をたてて、寺院の黒い森へ降りしきっていた。
彼れはその日の書物を物色していた。彼はたった二冊の書物のために、そんな気骨を折らなければならなかった。彼は古本屋を憎み切った。彼は自分へ怒った。
彼れは手ごろの書物を探し出して、行李へ蓋《ふた》をしようとしたはずみに、彼の躯は奇妙な恰好に捩れて、歪められた鉄管のようになった。その瞬間、何とすばやい速度であったろう、咳が破れ
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