めているのかと訊ねられたところで、彼はその時即座に応えられはしなかったであろう。

 その日彼は自分の書物を二冊売り払った。その金で、彼は二杯のコーヒーと一皿の菓子と夕飯を食べた。彼は愉快であった。彼は清新な気分を味った。
 そうしてその翌日も、その次の日も……彼は自分の書物を二冊ずつ売り払った。――そうして彼はこの生活を出来るだけ永く続けようと決心した。彼には新らしい感興が湧きはじめた。彼は生活するということを感じはじめた。そうして彼は好んでストーヴの設けてある飲食店を求めて、町を往来した。
 ―――――
 あの男はいつも今時分に見かけるが、なんと変な様子をしていることだろう、あの歩調を見給え、あれは土を踏んでいるのではない、空気を踏んでいるのだ、見給え、口笛を吹かないだけが似合わしくないよ――
 あ、あの男だ、それ見給え、ブラッシをかけた線がみえるね、それ帽子にまで……ところで、あの不恰好な不自然な元気のいい足どりを注意し給え……それにあの氷のような顔を見てみ給え――
 彼はあらゆる場所で、こんな言葉を人人の顔からも眼からも、自分の胸のなかへ感受した。

     *

 彼が青沼白心と会ってから一週間経った。その日、――空の雲は低く太陽の下を北へ流れていた。――彼は一葉の略図面を皺くちゃにもみつぶして、御影石《みかげいし》で出来た三階建てのS――中学校の玄関を訪ねた。
 彼は浦和博士へ面会を申込んだ。――彼は三脚の椅子の外は、壁飾りもしていない応接室へ案内された。俺は大へんに待たされた。――隣の部屋で人人の笑い合う声が、彼には不快であった。彼にはそれが、自分の噂へふざけかかっているかのように感じられた。彼は自分の躯が消えてなくなることを願った。
 戸口があいた。――彼のそんな考えを何ものかが感じたかのように。――彼は心持躯を顫《ふる》わして、後ろを振向いた。
「お待たせしました……君ですか、影佐君というのは……何を研究されました……外国語は……英語ですか……」
 博士は部屋のなかを歩き廻りながら、軽い機敏と当惑とを現わして、独り言のように言った。
「ま、掛け給え、外国語は英語ですか。」
 博士は一種動物的の眸を光らせて、はっきりと訊いた。彼は博士がこの部屋へ這入って来る前から椅子へは腰掛けていた。彼は博士へ挨拶する機会を窺《うかが》っていた。彼は博士一人が水車
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