話が、たったいまここからでもはじめられたかのように訊返《ききかえ》した。
「うむ、君にしたところで、教室では一面識がないという訳でもなかろう、倫理学の大家の――」
「あ。」
彼は思い出すことがあったかのように、しずかに応えたのではあったが、その実、その名ざされた博士の俤《おもかげ》さえ思い出してはいなかった。
「君、部屋のなかに閉籠《とじこも》っているので、散歩がてらそこへ行ってみ給え。」
「そこと言うと――」
「困るね、その態度では。中学校の教師にでもなろうという者が。――博士はそこの顧問だ……」
「中学校?」
「うむ、君はリーダーの二を教えるようになるだろう。多分そうだろう。」
「おれが?」
「君、困るな――」
「解った!」
彼は答えた。そうして自分の身にふりかかっている就職口の件について、最初のところから訊き返してみる考えであった。彼はただこのことに興味を感じたに過ぎなかった。一面彼は面倒なことが持ち上って来たと考えないでもなかった。そうして就職口を探し廻っているというそんな幻滅的なことに苦しめられるのは、彼自身としても嫌いなことであったから、就職を強いられることについてなどは一層かなりの反感をもった。彼は親友の顔を※[#「目+嬪のつくり」、205−下−23]《みつ》めた。何のためにこんなひがみが湧いたのか、彼自身にも解らなかった。しかし彼はいつか就職口のことを、青沼へ依頼したことがあった。彼はそのことを忘れていた。彼が忘れるのも無理はない筈であった。もう一年以上も前のことであったから。――彼は親友の心を尊重しなければならなかった。
「で……」
彼は不機嫌な顔を擡《もた》げた。青沼はすぐ彼の言葉を受けついだ。
「で、君は明日にでも博士に会ってみ給え。」
親友はこう言って、地図の略図面を書いた紙片を残して帰った。
*
彼は記憶に浮いてこない町の片隅で、軽い溜息を吐《つ》いていた。彼は目には見えないものを※[#「目+嬪のつくり」、206−上−13]めているようであった。彼は悲み且《か》つ喜び、泣き、笑っていたのではない。港町のように綺麗でしかも非常に混雑しているその町の片隅で、彼は煙草をゆっくりと喫《の》んでいた。その時は夕方と夜との境であった。鮮かな紺色の空気のなかにはいろいろの光が隠されてあった。彼はその光景にみいっていた。一たい何を眺
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