に、古本屋の主人は帰った。
 彼はきょう古本屋の主人を呼び、書籍全部を売却する考えであった。そうして彼はその金で何処へか旅行するつもりであった。ところが彼には古本屋の主人の言うことが一一癪に触った。本屋は流行の本ででもなければ価値がないと思い込んでいる。この売れゆきのことは別としても、書物を手に持ったか持たぬさきに、直ぐ無造作にそれを投げ出す本屋のしうち[#「しうち」に傍点]に、彼は腹をたてた。彼は内心怒った。彼にはその様子が見ていられなかった。ちょうどそれは指一本ずつ切って捨てられるような苦痛であった。それに三十前後のその主人は、一ことごとに変に語尾を長く引きながら、へ、へ、へと笑う。その笑いを飲料物のように飲みこんでから、にやりと顔全体で笑う。反古紙《ほごがみ》のような顔。彼はその顔に嫌悪を催した。大方はこんなことで彼は一切その申出を受けつけなかった。そうして彼は肉眼には見えないものの声に耳を傾けた。
「君はおれを忘れたのか――
「それは忘恩というものだ――
「おれは十分君を憎む――
「それはおれを愚弄したことになる罰だ――
「おれは十分君を憎む――
「おれは冷たい吹息を吹きかけられたところで、決して曇るようなものでないからね……ま、君の燃えかけた蝋燭のような心を憎む――
「おれは懇願するのではない――
「君の態度はよくないと忠言する――
「壁の表にぶらさがっている時計へ向って欠伸《あくび》ばかりしている君は、くたびれて飛べなくなった鳥のようなものだね――」
 取り散らかされた書物は、一一彼へ話しかけていた。彼は途方に暮れた。そうしてそれぞれの声は、ちょうど同一の音調を打ちつづけて、何処まででも進んで行くいろいろのキイででもあるかのように、それぞれのおしゃべりをつづけていた。そうして彼は、人間の音声を聴くことを奪われた永遠の島のなかの人のように人間の言葉を聴き得なくなった。人間の言葉を忘れてしまった。

     *

 或日――
 親友の青沼白心は、突然にひょっこり現われた猫のように、彼の下宿を訪ねた。親友は大へん落着いた調子で話しはじめた。しかし彼には、親友の喋《しゃべ》っていることが一体何ごとであるか少しも飲みこめなかった。
「で、君は是非とも浦和博士に面会してみるのだね――」
 いつの間にか彼の耳はこんな言葉を捉えていた。
「浦和博士?」
 彼は彼等の会
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