、彼の専門としておしつけられたくはないのである。兎に角、彼にはその生活の真似ごとだけでもしてみなければならないと思う心が強いのである。こんなふうに彼は自分を一人前の者のように考えてもみたいのである。道化役に当て嵌《は》められた彼は、それが恐るべき呪詛《じゅそ》であるとは知らないのである。そうして彼は人間が受けるあの威嚇を知りながらも、人間が生むあの模倣の呪詛を知らなかった。
そうして彼は全く夢遊病者のそれのように、押入を開けて、四個の行李を引き摺《ず》り出した。今更そのなかを検《しら》べてみたところで仕方はないのであるが、彼はいつもしていたことを繰り返してみなければ気がすまないように、第一の行李からはじめて、次ぎ次ぎとその蓋《ふた》を取り払って、そのなかを覗《のぞ》いてみた。そうしてそのなかに覗かれるだけのものは、みな読みふるされた書物の間に積み込まれた活動写真のプログラムとか芝居の筋書とかに限られていた。
*
ここの見たところかなり見すぼらしい下宿に、彼が転宿して来た時――一たいおれの宿の何処《どこ》に入口があるのか解らない――と転居を報《し》らすハガキを自分の親友青沼白心へ出した。彼はその文面が少し誇張しすぎていると思ったが、それでもいいと思った。何故なら彼の親友は、そのハガキを読んで苦笑したであろうから――殆《ほとん》ど笑うということを知らない親友を苦笑にしろ笑わせたということは、彼自身の悦《よろこび》でもあった。彼はそのことを予想してハガキを書いたのであった。彼はこのような男を未だ嘗《かつ》て友としたことがない。というのは、いろいろの意味で言うのであるが、――兎に角、この宿へ来る前、彼は少しは現金を持合せていた。それは大学ぐらいは普通に卒業出来るだけの金高であった。ところが、急にその持合せた現金が溶けてなくなるように、何処へかその姿を隠してしまった。彼は大へんなことになったと心に思いながらも、その行方を捜索しはじめたのであったが、どうしてもその見当がはずれがちであった。彼は警察へ訴えて見ようかとさえ思案したのであったが、その煩《わずら》わしさを考えて止《よ》してしまった。それにその証拠になるべきものは、何一つ残っていなかったと言ってもいい――しかしここにその証拠物件となるものがたった一つあった。それは彼自身の胸のなかに蓄えられていたその最初
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