官を中心にして幾十人幾百人おるか知れない。そうして彼は、恥かしいながら、そのうちの一人であると思ってみてもいいのであるが、すでに行われてしまったかも知れないその犯罪には、何らの関係もない。否、しかし虚空のなかへ徐《おもむ》ろに流れ込んで行く水の響のようなざわめきたつ事実は、全然彼自身に関係のないことでもない。彼は自分で盗みを考えたが、何者かはっきりと解らない者が、それをものの見事に盗み取った。その人は彼の考えを横領してしまった。その人は彼の盗心を盗み去った。そうして彼は二重に苦しまなければならなくなった。何故であろう? その人は彼自身のカフスボタンを竊取《せっしゅ》してしまったから。
 この苦悩は、彼の脳裡のなかへ黒雲の旋風を捲《ま》き起した。彼が予想するすべては、彼自身の最期を感じさせる。電燈などは点っていても消えていても一向差支えなくなった。そうして怕しい静《しずけ》さは室内に溢《あふ》れはじめた。その静寂のうちに彼を見張っている何者かが潜んでいそうである。その者は彼の心臓の動悸を数えている。彼は自分がもう堪えられなくなった。
 彼は立ち上ると蹣跚《よろめ》いて行って、北窓をがらりと開けた。その刹那《せつな》、彼の躯は、ひやりと夜の空気に打たれたと同時に、何ものかにナイフででも切られたかのように掠《かす》められた。彼は眼が眩《くら》んだように感じた。その時、彼はその何者か解らないものは、いままで部屋のなかに潜伏していた一人の陰謀者の輪廓のないたましいではないかと思った。彼がこう思えば当然であると会得出来る。しかしこれは莫迦《ばか》莫迦しいほど無智な表白ではなかろうか。ところが、この無智こそ人間に対する一つの威嚇《いかく》である。この愚鈍と交流してこそ人生は荘厳になるのである。何故なら、自己の絶えない失脚は、自己の実現に無駄骨を折っているから。若しも――彼は考えつづけた――一流の賭博《とばく》者は、素人《しろうと》である相手に、現金を山と積まれて勝負に熱中したところで、その札の山を切り崩して行くことは出来ない。この羅針盤の紛乱こそ人間の胸のなかへ挑まれる内心からの抵抗の動乱である。この電流と稲妻との焦噪は、物理学上の実験とも合致する。これは兎《と》も角《かく》として、人間が自分一人で自慢出来るようになるのは、あの奇妙に角張った威嚇が存在するために外《ほか》ならない
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