だカフスボタンを失ったと思えばいやな気持になった。部屋じゅうを見たところで落ちてはいない。それとも途中でおとしてしまったのであろうか。それにしては余りに物足りない。こう考えたからと言って自慢になるものではないが、若《も》しかしたなら彼は疾《と》うにあの郵便局へ闖入《ちんにゅう》していたのかも知れない。彼は自分の心にはそんなことのなかったように肯定させて置いたにも拘《かかわ》らず――それとも若しかしたなら彼自身ではない別の人が、彼の胸のなかをすっかり読み知っていて、彼が決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。そのためにその人は、彼のカフスボタンをいつの間にかこっそりと盗み取ったのかも知れない。そのボタンがその人に必要なことは疑いもないことである。その人は彼自身が考えた盗みをするために彼のカフスボタンを盗んだ。そうしてその人はカフスボタンを故意に犯罪の現場へ捨てる心であろう。すでにその人はその盗みをしてしまったかも知れない。その人とは誰であろう? あの若い警官であるかも知れない。警官であろうと、盗みをしないとは限らない。警官などはうまい口実を見つけるにいい境遇にある。それとも彼自身の第二体が、彼の決行しようと思っていたことをなしとげてしまったのかも知れない。その時、そのドッペルゲンゲルは彼自身である本体には知れないようにと、余り急ぎ過ぎたので、カフスボタンをうっかりしているうちに、現場へ取りおとしたのかも知れない。それとも彼等は彼のこうまで落魄《らくはく》している境遇へつけこんで、同盟して彼一人を奈落の底へ突きおとすのであるかも知れない。そうして彼はたった一つのカフスボタンのために、冤罪《えんざい》の悲運に陥るのであろう。それにしても先刻、あの警官の睨《にら》んだ眼はなんと怕しいことであろう。その眼光は、或《ある》確さを持っているのみでなく、更に人の心を射るような或もので輝いていた。それは警官を注意してみる者にとっては、或不安であると同時に冷淡の表示でもある。あの眼は、単に夜中ただ一人、路傍を歩き廻る者を穿鑿《せんさく》吟味するだけのものではない。あの眼の底には、隠れた意味が含まれている。警官とそれを見る者の相手との外には、解らない謎が含まれている。その説明は、事実が暴露しない以上第三者の誰にも解らないのである。しかしその二人だけなる者は、一人の警
前へ 次へ
全46ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
富ノ沢 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング