ブック・レヴューは決して珍しくはない。一例を挙げるに止めるが、ライプニツがロックの『エッセイ』を逐条評論した大著『ヌーヴォ・ゼッセイ』は、ブック・レヴューでないとは云えまい。マルクスの『ヘーゲル法律哲学批判』(本文の方)や、エンゲルスの『反デューリング論』などを思い出して見てもそうだ。解説書・注解書・までも考えるなら、この種のブック・レヴューが、文学史や思想史の上などで如何に多すぎるかを、読者は知っているだろう。
処がそんなものまでをブック・レヴューと呼ぶことは非常識の至りで、アカデミックな愚挙に他ならぬという非難があるかも知れない。だが実際はそうでもないようだ。何となれば、大小の雑誌に載る「ブック・レヴュー」(「新刊紹介」・「新刊批評」・其の他)其の他、は勿論書物の内容に就いての解説・注解・批評・を含んでいるので、単にそれが、原稿用紙にして数枚とか十数枚とかいう短いものに過ぎないのが多い、というまでである。以上は思想の表現物としての側から、本をブック・レヴュー(図書批評)したものであるが、他方之に対立するジャーナル商品としての本をブック・レヴューするという側面を考えてみると、その極端なものは広告文なのである(一二のものを除く大方の新聞の読書欄ブック・レヴューも、出版屋が原稿料を払うのであるから、広告の意味を有っている)。新聞の広告についても、広告主の出版屋や新聞社の営業の方では、記事とは別な「広告」だと考えているかも知れないが、読者の方から云えば之は最も重大な「記事」(時報的なニュース)の一つなのである。東京新聞の第一面出版広告欄がもつ記事としての魅力は、大阪新聞のただ中に置かれたことのあるインテリならば誰でも気づく処だろう。この広告文が意味のない最大級の誇張と、不正確なペテン解説とに終っているという習慣は、一つには出版者の教養の問題にあるが、不都合なことだ。私は著書の広告文は著者みずから自己解説するのが本当だと信ずる。著者たるものはゼルプスト・ダルステルングする権利と義務があると信ずる。序でだが、広告文を自分で書くことによって、例えば無意味で陰険な謙遜という東洋的な著者の悪習も、自然矯正されるだろう。之は自他を公正卒直に評価する風習に貢献するだろう。序文を書く時の著者というものは、多少センチメンタルになっているもので、酒癖の悪い少数の者は徒らに威丈け高になるが、大多数はヤニ下るものだ。例えば経済学の著書の序文に和歌などを入れたくなったり、擱筆の瞬間? の風物を抒したりしたくなる。それもいいだろうが、序文は著書の著者による自己解説であり、最も意味のあるブック・レヴューの一種だ。新聞学芸欄のブック・レヴューが著書の序文だけを材料として新刊紹介を企てるのも、ニュース・センスとしては正確なのである。
さて普通に漠然と考えられている所謂「ブック・レヴュー」は、一面に於て著書に盛られた著者の思想の原則的な解説・批評・であると共に、他面に於て、出版物としての本に対する公正な読者による時事的な解説・批評・を建前とするものでもある(ブック・レヴューが新刊を選ぶ場合の多いのはこの点から当然である)。後者の意味では出版の体裁、ヴォリューム、定価に至るまで、批評されねばならぬ。処が実際には定価やページ数という商品としての本質をあまり重大視しないブック・レヴューが珍しくない。東京其の他でこそ、店頭で自由に新刊本を手に取って見ることが出来るが、地方読者はこういう風にジャーナリズムずれする機会がないから、地方読者はブック・レヴューを最もよく活用する人だ。読者が一人の経済人として本を買う時の参考になるように書くのが、商品出版物としての著書のブック・レヴューのやり方であるべきだ。――で多くの雑誌がブック・レヴューに、つけ足りのスペースしか割かぬのは考えの不行届きから来る誤りである。一定数以上の本をブック・レヴューするのが、特に評論月刊雑誌の使命の一つである。この際ブック・レヴューが一定数以下では、偶然性に支配されるので殆んど無意味に近い。外国の学術雑誌がブック・レヴューに絶大な意義を置いているのは羨望に堪えないものがある。
[#改段]
2 読書家と読書
イギリスの数学教育者であるペリーが書いた有名な『数学教育論』を読むと、アレキサンドリア的な数学教師というような言葉がよく使ってある。丁度古代文学を集大成したアレキサンドリアの学者のように、ペダンティックな教科書を用いて幾何や代数の教育をやることを、何か学者らしい態度だと考えている数学教師のことを指すらしい。
私はこの言葉が大変気に入ったのである。勿論数学の世界だけではない。一切の科学また芸術の世界に、アレキサンドリア主義者がはびこっているのである。数学とアレキサンドリア式文学とは、あまりに明らかに過ぎる対蹠をなしているから、事情の妙なことはすぐ気がつくけれども、文化に関する科学や文学などとなると、このアレキサンドリア振りは、人の気のつかない内に、思わぬ勢力を張るものである。私は或る冊子をのぞいて見て驚いたが、その本は「科学精神」とかいうものを批判するのに、日本の高貴な方の和歌や、偉くも何ともないようなヨーロッパのあれこれの学究の片言双語などをもって自分の論拠の助けとしているのである。スペンセル氏曰く、の類のモダーン版なのだ。
また私の曾て勤めていた或る大学の東洋哲学の教授先生は、議論が少し込み入って来ると、やたらに審美的な漢詩を引用して、自分の主張の論拠に代えようとするので、大いに困らされたことがある。こういう誰が見ても妙な滑稽な現象は、歯牙にかけるに値いしないが、しかし考えて見ると、今日の「学問」とか「教養」とか「学殖」とかというものの大半が、これと同じ本質であるといわねばならぬ。
世に愛書家なるものがある。また蔵書家なるものがいる。いずれも性のよいのと性の悪いのといるが、今は問わぬとしよう。これに因んで読書家というものがいる。大体において物知りで博学な人である。ところが読書家の大半が、恐らくこのアレキサンドリア派なのである。ただそのアレキサンドリアン振りが、比較的馬鹿げていないかいるかの差はある。しかし実は、本を読むことから少しも利口になるのではなくて、却って読めば読むほど、頭が悪くなるという点で、同じ本質のものなのだ。現に今の私自身、この間偶然ペリーの本などを読んだものだから、そんなものを引合いに出さなくてもよいのに、何か文章に色艶でもつけようというような潜在意識で、アレキサンドリア主義などという衒学的な言葉を使って見たくなったのである。私の思想、それはここでは、文献学というものが軌道を脱線すると文化にとってどんなに有害であるかということを指摘論証しようという思想だが、この私の思想は、こういう「読書」によって一見豊富になったとも考えられるが、同時に著しくレディー・メード化して貧弱になったとも思われるというようなわけだ。
本が如何に人間を馬鹿にするかということについては、昔から色々の人が述べているが、それは決して逆説ではなかったのである。いわゆる読書子には、案外特色のある思想家はいないというのが、事実ではないだろうか。本を読まない人間の無教養は今問題でない。本を読む人間の内で、読書子や「読書家」は決して信頼すべからざる文化人である。彼等は雑誌の投書階級のような特色を、一般文化の上でもっているようにも思われる。一種の謙遜な弥次馬でなければ、不遜な能無しである。
こういう読書子は決して「読者」の代表者ではあり得ない。真の読者は読書主義には陥らぬものだ。というのは本を読むと同時に、それだけの分量の時間を、自分自身で物を考えるのに使う義務をみずから課しているのが、本当の読者である。本を読んだかどうかを記憶する人ではなくて、本を読むことによって何を考えたか、を記憶する人が、本当の読者である。
ブック・レヴューが最近盛大であるが、これはこういう「読者」を代表するところの、批評家の大きな仕事の一つなのだ。文芸の出版物を批評することが所謂文芸批評だとすると、一般の出版物を批評するブック・レヴューはクリティシズム一般の仕事の筈である。ブック・レヴューは、本格的な文明批評の一環である。アナトール・フランスなども文芸上のブック・レヴューによって名をなした。古来批評家は書評家である。ということは、批評家は本当の「読者」の代表者だということである。これはアレキサンドリア派の文献主義者なる所謂読書子や「読書家」のよくする所ではあるまい。
[#改段]
3 論文集を読むべきこと
大抵の本屋は、書き下しの単行本を書け書けという。一遍雑誌其の他に載ったものはあまり売れないという。論文集や評論集にしても書き下しの論文が這入っていないと売れないと云っている。或る本屋は論文集ならば、仮とじにして簡単に中味のわからぬようにしておく必要があると主張する。蒸し返しの中味をなるべく暴露する機会を少なくしようという魂胆である。なる程之は尤ものことで当然至極な考え方のように見える。一遍読んだものを誰が繰返して読むものか、と考えられるだろう。処が私は、これに大反対なのである。尤も、大反対と云っても、そういう論文集や評論集が売れないということが嘘で、大変売れるものだと主張する心算ではない。多分売れにくいのは事実だろう。だが私はそういう事実が気に入らないのである。そんな事実に不平なのである。事実に不平を云ったって仕方がないと言われるかも知れないが、併し少し不平の声を大きくすれば少しは改まる事実だろうと思うので、云って見れば、読書術の水準がもう少し向上(?)すれば、評論集や論文集がもっとよく読まれるようになって行くに違いないというのが、私の意見だ。
例をまず他の方面から取れば、私など絵の普通の展覧会は到底見るに耐えないのである。疲れるも疲れるが、テンでわからぬし、テンで興味がわかないのだ。無意味な印象が明滅交替するにすぎない。処がそれが個展となると、実に面白く、注目した絵の印象はいつまでも忘れない。
短篇小説もそうである。評論雑誌や文学雑誌にのるものを私は一つ一つ読んで行くことに、儚なくなるような苦痛が伴うのだ。勿論私は月々の作品の大部分を読んでいるのではないから、一人一人の作家について充分な用意が出来ていない。だから結局その作品の世界がわからずに終る場合が尠くないのだ。
評論や論文もやはりそうなのである。或る人の思想は一つや二つの文章を偶然のように読んでもわかるものではない。どうしても或る程度体系的に読まねばならぬのだが、それでは初めから纏めて書いた書き下し単行本が一等いいだろうと考えられるかも知れない。併し事実はそうでない。或る人の考えを最も特徴的に知ろうと思う時、私など最も頼みにするのは、その人の論文集や評論集なのである。之を割合に克明に理解すれば、その人の思想の骨肉ともに比較的早く呑みこむことが出来る。大がかりに書き下した「体系的」な著述の類は、云わば文筆的な儀礼が大部分を占めていて、筆者の本音は仲々伝えられるものではない。
それに所謂書き下し著書なるものは、一種気合いの抜けた、平均された結論が先に立っているもので、著者の思考の苦心の跡は、お客さんの前に出た主人達の夫婦喧嘩のように、ケロリと片づいて見える。これでは読者は、あたりさわりのない隣人の程度を容易に出られるものではない。どうせ物を書くのは、日記にしても著書にしても、一つのポーズであることは甘受して肯定しなければならぬが、ポーズにも儀礼的なものとそうでないものとがある。所謂体系的な著書は第一公式か第二公式の儀礼に従ったものなのだ。
評論集や論文集は、併しそうではない。一篇々々の文筆が粒々たる苦心と混乱克服との跡である。遂に混迷に立ち佇んで終っているものさえある。そしてこの文化的に愛嬌さえある文章の一つ二つを丹念に読み、其の他の諸篇を参照しながら行くと、不思議と、或る抜け穴が見えて来るものだ。そうなれば著者の考え方と思想とは、もしも著
前へ
次へ
全28ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング