者が文化的なロクデナシででもない限り見当がつくものだ。これで見当のつかない著者は、よほど独自な難解な人物であるのか、それとも全くナッていない作文屋であると見れば、間違いないようだ。
 かくて私は論文集や評論集の、学術的価値と文化的意義とを、高く尊重すべきであると結論する。夢々無知な本屋などにダマされてはならぬ。――それから序でに云っておくが、私の論文集はいくつか出ているから、以上の根拠により、今後遠慮なく売って欲しいものである! 一九三七年九月二十七日、誕辰の佳日に当って、一筆件の如し。
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 4 如何に書を選ぶべきか


 私は学生の頃、数理哲学に関する本を店頭で買ったり注文したりして集めた。この頃は高価くつくので、最近の出版のものは持っていない。次に空間や時間に関係した書物を集めた。之は今でも、外国書のカタログを見た時に、徴しをつけておいて思い出せるようにしている。是非要りそうなものはメモにとっておく(いつか大いに役に立ちそうな本はなるべくメモにしておく)。安いものは早速取り寄せる、取引先は東京にあるのだから。一頃は物質に関する文献や、唯物論に関した文献も機会あるごとに買うことにしたが、前者は近代物理学に関係があるので高価くて買えないし、後者は稀覯本が多くて、一向捗らない。ファシズムに関する日本で出た単行本は今でも注意して買っておくことにしている。一頃新聞乃至ジャーナリズムに関する書物を買うことにしたこともある。之は古本屋に思いがけないものを発見することが珍しくない。
 何も併し、之は私の収集趣味からではない。私はもっと本を実用的に考えている。だからどんな偉い本でも、大切な本でも資料という資格をしか与えない。どんなによごれていても、半ぱでさえなければいいと思っている。どっかの学生が使った仮名で訳を盛んに書き込んだものでも、安価くて資料として役立ちそうなら平気で買うのである。
 私の興味には自分でもよく判らない或るシステムがあるのであって、処々にテーマとなるようなステーションがある。そこのまわりの本を買っておけば、ステーション相互の間に、いつの間にか意外な連関が発見される、とそういう気持ちがするのである。実際そうなった場合もあれば、どうもなりそうもない時もある。つまり私の興味の網の目にひっかかった本を、何はともあれ(安価である限り)買っておく。こういうライブラリーが、まず五千冊にも及べば、少しは役に立つセットになるかと思っている。
 どうしても新刊書を買いたくなるものである。自分には縁遠いと知りつつ、新刊書だというだけで、買って見たくなる本もある。新刊書の魅力というものは不思議なものであるが、一つには時代の動きが私を誘惑するためだろうし、もう一つは他人に負けまいという我慢も知らず知らず働いているようだ。おかげで随分つまらない本を読まされることも少なくないが、併し新しい関心の開拓には、確かに新刊書が最も有効であるように思う。そこは大体好奇心であるが、好奇心はごく新しい新刊と共に、又約十年以上も旧い古本に対しても動く。
 私は古くなった新本よりも、本当の古本がすきで(恐らく安価いことがそういう審美感を産むのだろう)、古本屋で本を眺めながら色々の想念を捉えることが楽しみだ。どうも之は東京堂や丸善では起きて来ない気持ちである。
 本を買うのはすぐ読むためとばかりは考えない。私にとっては買って持っている本は、読んで持っている本の三分の一の価値、読んで今持っていない本の、二分の一位いの価値、があるように思える。本は読むためばかりではなく、見るためのものでもあるし、所有するためのものでもあるというのが、私の持論である。
 皆んなが読むものを、是非自分も読まねばならぬというのは、あまり賢明なこととは思われない。大変価値のある本とか、自分が読んだら特別の意味があるとかいうなら別だが、他人が読むからという理由で、読むのはヤキモチの一種である。本というものはなるべくなら他人に読ませて、その読者にその本を紹介させたり批評させたりして、その要領で大体の見当をつける方が、正しい勉強(?)のように思う。自分は自分の本を読むべきであって、他人の読む本を読むべきではない。
 何でも読んでやるという太肚と野心とが絶対に必要だが、読む順序には自我流の見識がなくてはならぬようだ。一頃猫も杓子も騒ぎ立てた本で、その後全く声も聞かなくなったような本を悠々と読んで見るなどは、中々痛快なものである。之は他人の知らない本をコッソリ読んで、種本にしたりするよりも、公明な心境だろう。読むのは凡てを読め、読む順序は独断的であれ、と私は思う。
 読む順序のシステムは、教程のように初めから人工的には決らない。次から次へと自然に導かれるべきである。次の本を選ばせるだけの暗示を与えない本は、その当座は自分に役に立たぬ身に添わぬ本と思えばよい。そして次のは、割合あてズッポーに選べばよい。問題にひっかかって来ると、本の選択などは本自身が教えて呉れるだろうと思う。
 一定の限られた解決を必要とするような形での研究上の選書法は、恐らくその時々で異るだろう。私が考えて見たのは、半ば研究的で半ば教養のための、選書法のことである。
[#改段]


 5 論文の新しい書き方


 文章の書き方、論文の書き方、については、旧くから色々云われている。書き始めはどう、中の処はどう、結尾の辺はどう、という具合に、何かの範型があるように云われて来ている。なる程唐宍八家文などにはそういう手本になるようなエッセイが大分ある。だが私は、韓退之のようなああいう艶っぽいくせに鈍重な「論文」は大きらいなのである。一体、支那の古典文が大方そうなのかも知れないが、あれは作文であって論文ではない。作文には規範めいた定式は考えられるが、論文にそういうものはあり得ないだろう、というのが私の考えである。特に大臣の演説や政治家や軍人の教化的講演をここから連想させられると、もう我慢が出来ない。なぜ日本の支配者達はこんなに考え方が作文的なのかと、味気なくなるのである。
 それはさておき、論文には一定の型式となるようなものはない。内容が一定の文章を要求するのである。書く人は出来るだけの力を自分なりに発揮して、この内容を自分自身に逐一納得の行くように整理し点検して行けばいいのである。それがおのずから、読者にもよく判る論文となるのであって、普通の論文では、人に判らせるために書いたものよりも、書く当人によく判らせるように書いたものの方が、判りがいいのである。尤も判るとか判らないとか、やさしいとかむずかしいとかは、読む人の教養と思考力とによることではあるが、少なくともユックリと丹念に読む場合、専門の特別な論文でもない限り、正しいものなら必ず或る程度、要点は判るものだ。
 一読して、つまりごく不注意に読んで、何だか判ったように思われる論文でも、少し疑問を持ちながら注意して読むと、一向取り止めのない判らない論文がよくあるものである。その人間の云いたいことがさっぱり判らないのは論外としても、云いたいらしいことは大体常識的に見当はついても、さてその云いたいことがその論文によっては一向特別な根拠を与えられないようでは、その論文は要するに何の役にも立っていないのであって、ただ、こうだああだ、と主張だけを書いた方がまだしも正直なことで、論文の体裁などはコケおどしの見せかけに過ぎなくなる。つまり既知の常識を常識として反覆するだけで、その常識を掘り起こすでもなく、糾明するでもなく、高めるでもない。こういう論文はアタマの悪い論文である。そしてアタマの悪い論文は、往々歓迎されるものであるのも忘れてならぬ事実だ。つまり読者の既知の世界に抵抗して行くだけの骨のない論文は、一種の人間的弱さから来る好意を以て迎えられる。――アタマの悪い論文に堕さぬためには、論文は作文でないことを注目してかかる必要があろう。勿論アタマのよい論文で、作文としても修辞的で愁訴力に富んでいたり扇動力を持っていたりすれば、それに越したことはない。
 論文の生命は、あくまで分析を通しての総合という手口にあるのである。分析とは大体区別を明らかにすることだ。同じ言葉や意味の近かそうな言葉を区別して、夫々の通用範囲をハッキリさせ、それを使って事物を解明して行くことである。総合とは之に反して、連関と対立物の統一とを明らかにすることである。お互いに無関係に見えるもの、お互いに違っているものの間に、或る同一性に帰する関係を発見することである。そして、二つの相違し又無関係に見えた事物をこういう風に関係させるためには、二つのものの夫々について、さっき云った分析が予め必要なのである。充分に分析されないものは、決して満足に総合はされない。充分に分解されて初めて確実な組み立てが出来る。論文の主張[#「主張」に傍点]はこの時初めて成り立つ。云って見れば、之が論文の書き方の方式の唯一のものであるかも知れない。アタマの悪い論文とは、この方式を実行出来ない論文のことだ。それをゴマ化すために、作文などに努力をする。
 処で、事物には凡て表と裏とがある。事物を処理するためには、表と裏との両面から這入って行かねばならぬ。之は論文の作文法の問題ではなくて、事物そのものの性質が文章に対して一般的に要求する処だ。反語や逆説やアフォリズムという作文様式は、この要求から使われるのであって、特に反語や逆説やアフォリズムを使って見たくなったから使う、というものであってはならぬ。又そういうことは、本当は不可能なのだ。こうしたものを何か便宜的なものと考えている人があるとすれば、浅墓の極みである。物を少し親切にリアリスティックに掴もうとすると、そう棒ちぎりを振りまわすように行かなくなる。批評論文にしても、少し気をつけて読むためには、賛成している処に反対しようという用意を見、反対している処に賛成の素地を見出す底の用心がなくてはならぬ。結論は賛否ハッキリ出来る場合が勿論極めて多いわけだが、その結論まで行く迂余曲折が論文の生命で、そうでなければ折角通過した地点も容易に失われねばならぬだろう。論文の進め方は戦線の前進のように考える必要がある。前にさえ行けばいいというわけのものではないのだ。いや、結論ということ自身をもっと慎重に理解すべきであって、ただの結論は何の実力もない独断と同じである。結論は分析と総合とを通して得た行論[#「行論」に傍点]の結論以外のものではなかった筈だ。
 論文は出来るだけ簡潔に卒直に書かねばならぬ。余計な尾鰭は原則として邪道の因である。だが論文は幼稚であってはならぬ。用意周到に事物の表裏を点検しなければならぬ。その意味では、出来るだけ複雑で皮肉で触角の伸びたものであってほしい。そしてそういう雑多を整理した上での、卒直簡潔が本当の水際立った論文なのである。――だがこういうことが出来るために、最後に最も大切なのは、勘である、感覚である。事物に対して持つ直覚の優秀さである。之は不断の訓練に俟つものだ。
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 6 校正


「そのやうな」は「ような」とは書かない。「しようと思ふ」は「しやう」とは書かない。「用ゐる」は「ゐる」又は「ひる」であって、決して「用ふる」や「用ゆる」であってはならない。校正者はこの程度の国文学者であることが必要だ。
 なる程発音通りに仮名を使えという主張がある。之は確かに進歩的な主張だと思う。併し、仮名通りに書かない処の国語の習慣に従った原稿である場合には、少なくとも以上のように校正することが必要だろう。
 それから又、文法的に正しくあろうともなかろうとも、現に大衆的にそう使っている以上、それでいいではないかという反対もあるだろうが、それだけの覚悟があるなら又別だが、併しそれにしてもさっきのような点は、知っていなくてはならぬ、ということに変りはあるまい。之を知らない程度の校正者は何を仕出かすか安心ならぬ。
 校正者は国文法だけではなく、漢字の熟語や、英独仏露、エス、ギリシア、ラテン其の他の語
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