日の日本の児童の心理がどういう動向をとりつつあるか、之を社会的に観察した結果は何であるか、夫を私は著者から聞きたいと思う。子供は或る種の大人よりも、現代生活のリアルな真実をもっとよく知っていはしないだろうか。処が著者は子供達の社会の現代的動向を洞察するよりも、寧ろ文部省其の他の法令や制度や教員などの方に、より以上の教学的情熱を示しているようである。
 云いたい点は沢山あるが、紙数に制限があるので割愛せねばならぬ。実を云うと私は著者の実際家らしい識見に啓発される処が甚だ大きいのだが、夫と同時に右に述べたような疑点が却って鮮かに私の眼の前に浮び出して来ることを禁じ得ない。なお付録の四つの文章は有体に云ってあまり共感出来ないものだ。
[#改段]


 11[#「11」は縦中横] 小倉金之助著『科学的精神と数学教育』


 科学的精神は時代の最も重大な課題である。之こそ現代人の建設の課題であると共に、現下の国民にとっての文化的性能の試金石であると云ってもいい。この時現われた本書の意義は、私が改めて説明するまでもないと思われる。
 小倉金之助博士は、数十年来、首尾一貫して科学的精神の提唱と検討とをその文化的目標としていると云っても云いすぎではない。博士が実用数学の権威であると共に数学教育の権威であることは人の知る通りだが、この実用数学についての抱負と云い数学教育の理想と云い、科学的精神問題以外のどこからも発してはいない。
 氏によると科学的精神とは日常生活から科学的認識を導き出すことである。数学も亦そのようで実用性に基いて史的発達を遂げたものであり、従って数学教育の道も亦この数学史の個体発生的に反覆する事になければならぬ。かくして数学教育の目的は科学的精神の獲得にあることとなる。勿論之は単に数学教育に限ったことではないのであるが。
 生活は科学的精神から離れて一刻もあり得ない。それ故科学的精神とヒューマニズムとは離れてはあり得ないと氏は主張する。
 この思想はヒューマニズムを科学的精神の反対物ででもあるかのように妄想している一部の人達に、猛省を与えるのに最も役立つだろう。序篇と本篇とから成り、前者は比較的旧い時代のもの、後者はこの十年あまりのものである。
 序篇から本篇への進歩は、マッハ主義から唯物論への前進と社会科学的省察の徹底とに現われている。本書は『数学教育の根本問題』や『数学史研究』『数学教育史』を貫く根本精神の顕揚に資するために存在する。
[#改段]


 12[#「12」は縦中横] 社会・思想・哲学・の書籍について


 聞く処によると、今年(一九三六年)の出版界は前年度に較べて多少勢づいて来たということである。尤もここで出版界というのは、文化的に一応承認された水準に達したものの出版をする世界のことで、色々な意味に於てインチキな出版物は計算外においての上であるようだ。つまり云わば真面目なものが、従って亦所謂「固い」ものも、前年度より少しは余計に出版されたと云われている。之は正確な統計によらなければ、何とも云えないことであるが、併し恐らくこの見方は当っているのではないかと思う。
 その本質上の動きはとに角として、所謂右翼(国粋・ファッショ・反動)の華々しさは、昨年の暮から今年の初めにかけて、多分その絶頂にあっただろう。それ以後は、華々しさの点から云えば、夫は下り坂になっている。例えば新聞は昨年頃よりは少しは自由に、日本の政治的動きに対する批評を下し始めることが出来たし、右翼も亦その所謂「右翼小児病」を清算して、観念的な華々しさから転向するようになった。無論その根柢には、右翼団体の戦線統一や大衆化というものが、かくされているのであるが、夫と同時に、今ではすでに、露骨にセンセーショナルな右翼張った口吻は引き潮になった。無論そういう皮相な変化は、一等よくジャーナリズム営業に反映するものである。
 で、機関説問題などがやかましかったに拘らず、そして之に関する多少は形をなした書類も無論少なからず出版されたにも拘らず、出版界の大勢は、もっと真面目に落ち着いて来たと見て好いだろう。流石の宗教物も急速に下火になったようだ。もしこのブルジョア社会に、仮にくだらぬ愚劣なものであるにしても、とに角世論というものがあり、それが少なくともジャーナリズムには直接の関係があるとすれば、この世論は、たしかに今年になってからは、もっと真面目な内容のある読物を要求したと云わねばならぬ。ここに世論とは、文字を読む社会層のその時々の共通感情の発現のことだが。
 読書界の真面目な内容のあるこの落ち付き振りは(但し夫をあまり買い被ることは出来ないが)、二つの方向を取って現われた。一つは左翼的内容を有った出版物の復興であり、而も以前よりは一層落ち付きのある内容を有った出版物の復興であり、もう一つは、広い意味に於ける古典的な文学的著作(必ずしも文芸物には限らぬ)や自然科学的著作などの相当計画的な出版である。この後の方の場合は、おのずから、一見政治的傾向とは関係の薄い、云わばイデオロギー的に見れば中性を帯びたように見えるものの出版で、この出版現象が社会現象として実際に何を意味するかは別として、とに角読書としては一種の落ち付きに基くものと見ねばなるまい。
 所謂左翼出版を行なって来た出版業者は二三年以前までに仕事を抛り出して了ったものが沢山あった。希望閣・共生閣・鉄塔書院・其の他がそうだった。今年の一九三六年の初めまでに残った左翼的出版業者は叢文閣と白揚社とナウカ社位いなものだろう。処が最近では多少そうした種類の出版物に関心を持ち出した書店がなくはない。例えば三笠書房などがその例だろう。そうしてこのいずれの出版業者にしても、その出版書籍の口数は決して他の種類の出版業者に較べて少ないとは云われないようだ。少なくとも今年になってこの種の出版は相当調子づいて来たように思われる。
 社会科学方面では、小林良正、森喜一、相川春喜、永田広志、其の他の諸氏の研究が白揚社から単行本になって出た。野呂栄太郎氏の『日本資本主義発達史』が岩波から再版されたことも注目に値いする。叢文閣は、ヴァルガの年報を続けて翻訳出版していることは別として、ヴィットフォーゲルの『市民社会史』其の他やダットの『ファシズム論』や、ポポフの日本に関する諸研究など読み応えのある翻訳物を続々出版している。
 哲学・自然科学・方面では、白揚社から出た秋沢・永田・両氏の宗教批判講話、巌木勝氏の日本宗教史などがこの方面の開拓者の役目を果したと見てもいい。永田広志氏や私なども、哲学に関したものをここから出版した。岡邦雄氏は自然科学史を出した。アインシュタインの『わが世界観』も出た。考古学や言語学に関する訳も出た。三枝博音氏と戸弘柯三氏とは日本思想史に関する書物を他の書店から出版している。ナウカ社はソヴェートに於ける自然科学的著述の翻訳出版に力を注ぐ。数学や物理学・化学・などに関する中等教程とか、『ソヴェート科学の達成』とかマキシモフの自然科学とレーニンとに関する論集とかも出た。三笠書房は最近『ソヴェート文学全集』を出しているが、之と前後して、『唯物論全書』を続刊している。之は唯物論の視角から見た学術的に根本的な諸テーマを取り上げて研究解説したもので、日本では最初の企てだと云えるだろう。すでに十三巻以上出ている(一九三六年まで)。
 著書の序でに、左翼的な又は建前に於て進歩的な評論乃至学術雑誌を見るとすれば、『経済評論』(叢文閣)、『歴史科学』(白揚社)、『唯物論研究』(唯物論研究会)、『社会評論』(ナウカ社)、其の他の読者の定着を注目しなければならぬ。
 以上は或る意味に於て「左翼的」(?)な、と云うのは、本当の意味に於て進歩性を建前とする、出版界のことだったが、その実質的な内容から云って、到底、所謂右翼出版物の遠く及ぶ処でないことは今更問題ではない。尤も企業的に見て、どっちが儲かっているかは、私の知る限りではないが。
 併し、イデオロギー上の中性を有つ出版物が、著しく盛大になったことは、今年の何よりの特色に数えられるだろう。自然科学関係のもの(例えば『岩波全書』)が多数出版されて重厚な読者層を見出しつつあることは、之も一つの思想上の現象であり、中性に於てサスペンドしようとすると共に、しばらく退いて落ち付いた勉強をしようという、社会意識の現われだろう。でこの種のものは多く教科書の形をとる。そしてこの中性式教科書好みは無論決して自然科学だけではなくて、社会科学に就いてもその通り云われることだ(尤も改造社の『現代金融経済全集』や『統計学全集』などは、評論社や改造社が往年競争して出版した『経済学全集』の類とは較べものにならぬが)。この教科書好みの大規模なものは辞典や古典の全集となって現われる。辞典の方は尤も、勉強を省略しようとする読者にとって魅力を有つが、古典の全集は恐らく勉強するために買われるわけだろう。文芸辞典やゲーテ・ニーチェ・ドストエフスキー(尤も再版)其の他の全集が、出つつある。
 だがイデオロギーの中性を求めるというこの読書界の大きな部分の現象、即ち又それに相応する出版界の現象は、一面に於て地道な手続きを取った探求の精神の現われであると共に、直ちに又他面に於ては、却ってつきつめる底《てい》の探求を放擲するものであるということを、深く注目しなければならぬ。之は左翼運動家の転向現象とも一定の関係があり、左翼思想家の退却とも連りがあり、それから特に文学の世界に於ては、文学主義化の傾向とも連絡があるのである。だから例えば、同じく中性的な哲学でも、普通のコースを取った所謂哲学という形を有つ哲学よりも、文学主義的な立場をハッキリと表面に現わし、従って文学的な内容の豊富なような哲学が主として選ばれた。『ニーチェ全集』やキールケゴールのもの又或る制限の下では『ゲーテ全集』などが夫だ(ニーチェに関する研究書は著書と訳書を加えて三四種に及ぶ)。之に反してプロパーなブルジョア哲学の出版物は、解説風のもの(岩波の『大思想文庫』)を除けば、非常に少ない。
 この中性的イデオロギーによる出版現象の台頭に直接する、哲学・思想・社会・理論・其の他の一種のこの文学化と関係するものに、批評の問題への関心が存する。ティボデ、ファゲ、サント・ブーヴのものなどが訳されている。之は元来、吾々の問題探求の深化でなければならないのだが、下手をするとその皮相化に終る危険があるだろう。
 政治上の自由主義はとに角今日極めて困難に面接している。之に反して、右に見たような意味に於て、文化上の自由主義は中々盛んであり、又根強いものがあると考えられる。もし左翼的な進歩性と、自由主義者の進歩性とがあるとすれば、この両者がいかに結びついて行くかは、一九三六年度の出版界に就いての興味ある観点だろう(私個人の関心が累して遺漏と偏局とがあったと思う。紙数の制限のために省いたものも多い)。
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 ※[#ローマ数字5、1−13−25] 余論




 1 ブック・レヴュー論


 厳密に考えて行くと、ブック・レヴューというものの意義は意外の処へ連っている。元来「本」という物が、一方に於ては思想の表現物だし、他方では之とは独立的に、一つのジャーナリズム的商品で、印刷や装幀という物質的条件を含む。本に現われた表現報道現象の、表現上又は報道上の価値は、必ずしもそのまま本という商品の交換上の価値であるとは限らない。現に、本という商品はその内容の良さだけで売れるのではなくて、本の名前や著者の有名さや人気や時宜や広告のスペースや広告文の偉力で売れるわけだから。
 本というものがこういう二面を備えたもので、而もこの二面は必ずしもうまくソリの合ったものではない。だから、ブック・レヴューも亦単純なものではない。思想表現物としての本という側からブック・レヴューを試みれば、之は正に評論・レヴューというものであって、単に本自身を批評するのではなく、之によって著者の思想自身を批評するのだ。この種の
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