段階には色々ある。この書物を貫く進歩性は云わば自由主義的乃至社会民主主義的なもののそれに近いだろう。そのことの良し悪しは別問題だが、とにかく今はこの進歩性は尊重されねばならぬ。現にこうした「進歩的」な辞典、総合的見地のハッキリした而も翻読されるべき性質を持つ進歩的辞典は、日本で最初のものなのだから。※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]図も四十七入っていて、中々手のこんだ注意深い編集振りである。
[#改段]


 8 『人間の世界』を読む


『人間の世界』と清水幾太郎氏が呼ぶものは、社会対個人の世界であり、虚偽対真実の世界である、つまり真の人間は、或いは人間の真実は、個人の世界にあるのであり、之に反して偽った人間界或いは人間の虚偽は、社会の側にあるのである。
 勿論この個人は、社会に先行する社会の要素のようなあの「個人」のことではない。社会の内から生まれ、社会の内に住みながら、なおかつ社会を抜け出で、之をつき抜けた個人のことだ。社会から奪還された個人である。その意味から云う限り、著者の立場は決して所謂個人主義ではない。社会的な個人が人間なのであって、非社会的や社会前的な個人が人間なのではない。
 この「人間」が何であるかはとに角として、清水氏はなぜこうした「人間」や「個人」に到着したのだろうか。同氏は進歩的な社会学者である。社会主義に対する良い理解者である。にも拘らず現代日本の多くのインテリゲンチャと同様に、社会主義に対する良い理解者である以上に出ない。と云うことは、理論上でも之に対する傍観者だということにもなる。社会主義的社会科学が、あまりに多く社会と社会階級とが有つ客観的意義を強調しすぎ、個人が之を主体的に作為するという点を忘れすぎていた、という常識を是認することから、人間的真実を専ら社会ではなしに個人に求めようという結論を導き出したようにさえ、私には思われる。
 清水氏はかつての社会主義的社会科学に、或る宗教的な特徴を見たらしい。処がこの宗教的特徴を洗い流すために、社会主義的社会科学そのものからも手を引いた。その結果、同氏が最も烈しい批判の相手とした処の「社会学」的な或るものに自分自身行きついて了ったようだ。社会学というレッテルは氏にとって多分迷惑だろう。だから私は所謂ゾチオロギーだけを今日の社会学だとは思わない。寧ろ今日[#「今日」に傍点]の日本で方々に新しく顔を出し始めた社会学は、社会主義的社会科学から手を引いた各種の文化論的社会論のことであるのを注意したい。之は現下の新しい形而上学である、文化的形而上学である。之は日本の思潮に現われ始めた新しい体系だ。
 この新しい何年型かの流線型哲学は、個人を社会から奪還することに情熱的であることを、共通特色とする。だが個人をそこから奪還せねばならぬその社会とは何か。階級的闘争場裏である社会から個人にまで脱却せよというのか、それとも又、ファッショ化乃至アブソリュティズム化しつつあるこの日本の社会から吾々民衆の各個人を防衛せよというのか。清水氏の本書に於ては、恐らくそのどっちでもあるようだ。そしてこの二つの区別が大して問題にならないようなシステムが、正に本書の特徴をなす。氏は今日の文化人の信念である反ファッショ的情緒をこの本の至る処に侵み出させている。だが之は「社会」なるノモス[#「ノモス」に傍点](法則)の世界に個人なるフューシス(自然)を対立させよということで、実地上の効果を期待出来るものだろうか。又理論上の論拠を与えられるものだろうか。
 氏は反ファッショ的な情緒の論理的背景として、合理主義[#「合理主義」に傍点]について思いをめぐらしている。だがこの合理主義と個人奪還説とは、どうやって結びついているのだろうか。反ファッショ的論拠が合理的精神にあることは、当然であり又今日の常識だ。だが今日の文化上の根本困難の一つは、この反ファッショ的な合理的精神と人間個人の復活という二つの常識の間に、どういう必然的な繋帯を発見するかにある。今日の日本のヒューマニズム論議が今だに解き得ない要処がここだ。この『人間の世界』も、この点に来るとやはり無力であるようだ。
 だが本書の価値はまず、人間が人間外、人間以上、のものに対する、反逆この反逆一般[#「反逆一般」に傍点]の精神にあるのである。思えば今日程人間の反逆的精神一般が不足を感じている時はない。反逆精神が減ったからではなく、反逆精神の必要が増したからである。そこで清水氏は、悪を(之は必ずしも神学的なあの悪のことではなくて社会面の記事で云う社会悪に近い)反逆の一つの形式と見る。個人の傲慢不遜も新しい反逆のモラルと考えられる。所謂歴史論風な歴史も亦踏みにじられねばならぬ。ここが著者の本書に於ける結局の覗い処であり、同時にここが本書の結局の価値である。――私はこの点甚だ同感だ。だが依然として、この反逆が反逆一般であることについては心配がなくはないのである。清水氏は、この本を、人間を「強く」し、人間が自己を「幸福」にするために書いている。そのモラリストらしい心情は共感を禁じ得ない。ただ強がることも「強く」なることの具体的な一場合だし、「好い気になる」のも幸福の一種であるということを、清水氏は林首相や文武官僚などに教えねばならなかったのである。
 私はこの本を実は、極めて特色の豊かな、而も時代を象徴するに足る、良書だと思っているのだ。それだけに自分の意見を混えて見たくなるのである。
[#改段]


 9 朗らかな毒舌
       ――『現代世相読本』――


 阿部真之助氏の『現代世相読本』が出た。みずからいうところによると「この二、三年来の私の所謂『毒舌』の集積であって、いい換えると、私の善人振りを証明したものである」という。この言葉は決して嘘ではない。これほど痛快な毒舌を他に求めることが出来ないと共に、これほど善意で朗らかに読み取れる毒舌もまた少ないだろう。阿部真之助氏独特の毒舌タイプである。
 政治論約十六篇、時事論評約五十四篇、人物論大小合せて六十五篇程、他に婦人論その他の雑評九篇からなっているが、見られる通り人物論が比率にして一等多い。そしてこの人物論こそは最も利き目のある毒舌振りなのだ。と共に、又この位い素直さと一種の同情とによって貫かれた人物論を他に見ることが出来ない。氏は見方を誇張もしないがまた遠慮もしない。これは個人的利害関係の介在しない場合にだけありうる批評眼だが、しかしその他に批評家の持つべき確実さともいうべき或るリアリズムがなくては出て来ない風格だ。ところで氏はこのリアリズムに、キビキビとしたユーモアまたは愛嬌で更に一段と磨きをかけている。
 ありとあらゆる分野の人物を、よくもこんなに知り、よくもこんなに調べたものだという感じだ。新聞記者でなければ出来ない仕事だが、またただの新聞記者では書けないものだ。主観めいた観察のポーズなどは遙かに卒業済みであり、下手な人間学に陥ることを避けて、人物をその仕事と客観的な環境とから洗って行くところは、敬服に値いする。生きている人物の評論(棺を覆わぬ内の人物評論)として、上々のものだろう。
 人物論といっても大体において、政治論または時事論評と大して変った内容のものでないことは、寧ろよい特色だと思われる。ところで政治論の一群は言論界の苦労人であることを示すに充分である。時事論評にはやや一応の常識に流れたものも多いが、健康なリベラリストとしての強靱性を示していることに変りはない。婦人論や雑評もまた大体人物論に帰するが、これはうらやましくも最も余裕綽々たるもので、全く面白い。
 阿部氏の最も得意とするところはつまり人物論であるという結論に、私はこの本を読みながら到着した。そしてその人物論が、実に現代世相を物語るそれぞれの短篇作品になっているというわけだ。杉山平助風の文学者的人間論とも違えば、野依秀市式の政治屋流人物観とも異る。正に阿部流人物論の型を確立したものといってよい。
[#改段]


 10[#「10」は縦中横] 入沢宗寿著『日本教育の伝統と建設』


 日本の伝統の問題、単にこの伝統なるものをかつぎ回ることではなくて、実際問題として之と取組まねばならぬという関係、夫は教育に連関して初めて切実になる問題だ。日本伝統なるものは教育に際して初めて実際問題となると思う。そういう意味で私は本書の書評を引き受けた。割合慎重に読んで見て得た収穫は、或る程度まで私の渇望が充たされたということである。だがそれだけに又、私がこの日本伝統の問題に関して懐いている疑点が、クローズ・アップされたことを意識する。
 本書は四つの部分から成り立っている。第一篇「日本教育の伝統と現代」、第二篇「日本教育と宗教教育」、第三篇「日本教育内容の改善」、それから付録である。本篇三箇を一貫するものは、宗教教育の提唱である。著者は日本教育の伝統を歴史的に叙述することによって(「我が宗教教育の歴史的考察」や「日本教育史に於ける仏教教育」の如き)、日本教育の本質は宗教教育にあることを明らかにし、それが明治維新の誤った排仏毀釈と、キリスト教学校の反国家的教育方針とを縁とする宗教一般の否定、とによって遺憾ながら見失われてしまったことを反復力説する。道徳からさえ宗教的意味を取り捨てて了った。処で最近、学校に於ける宗教教育が説かれるようになった現象は、全くわが意を得たものだと考えている。
 著者の云う宗教教育とは宗教的情操の教育であって成立宗教のものではない。そして夫は日本に於て、祖先崇拝・敬神・等々から始めて、忠君愛国にまで至り得べき国民の宗教意識を指す。一切の教科はここに発しなければいけない。修身・作法・国語・歴史・公民科・等々は云うまでもなく家事や理科に至るまで、専らこの宗教教育に帰着せねばならぬとする。
 処で日本国民の宗教的情操は又、仏教・儒教・神道・と離れてはあり得なかったし、又あり得ないと考えられる。つまりこの三つの「教え」を単に道徳的内容と見ることが誤りで、之を宗教的な内容だと見ねばならぬとする。かくて日本国民の伝統たる例の宗教的情操は、神仏儒を一丸としたような内容を持つことによって、まさに「教学」となり「学問」となるものでなくてはならぬ。日本国民の「宗教的情操」とその東洋的な「教学」とが、どう結びついているのかは、実はあまり明らかにされていないと思うが、とに角之が日本文化の伝統であり従って又日本教育の伝統であるということは、正に大いに首肯すべきだろう。
 だが問題はこの伝統がなぜ明治政府によって断絶せしめられたように見えたかである。夫は単に「誤った」教育政策などに帰することは出来まい。日本の資本主義と夫の基底に横たわる生産技術とを見逃しては、前資本主義的伝統の理解は途方に迷うだろう。著者はこの点についてあまり注目していない。単に、徒らなる排外主義は心ないものだ、大いに西欧的観点をも容れて日本教育の伝統を生かし、以て新日本教育を建設せねばならぬ、と云った種類の気休めに落ちているように見える。
 終局の問題は著者の教学[#「教学」に傍点]のイデーの内にある。教学は東洋的封建観念論の性格的なもので、生産技術と凡そ無関係なことを一特色としている。それであるが故に、之は科学[#「科学」に傍点]ではなくて教学[#「教学」に傍点]であり、学術[#「学術」に傍点]ではなくて教え[#「教え」に傍点]なのだ。だから著者が理科教育などについて云い得ることは、自然を通じて神を見ることを教えるのだとか、優れた自然科学者は又宗教家であるとかいう、ナンセンス以上のものではあり得ないのである。教学主義を以て理科教育や科学的精神の教育を企てることが如何に無意味であるかを、吾々はもう少し真面目に省察することが必要だろう。――こう考えるとき、私は日本伝統の問題の困難さを、この書物によって愈々切実に感ぜざるを得ない。
 著者は、教育は「児童より」と称して、児童の要求を出発点とすることを力説するように思われるが、今
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