れもこれも、心理学的地盤にだけ立って意識形態を説明しようとする「心理学的イデオロギー論」(著者達はそういう言葉を使っている)だという点にある。それはまだ社会意識[#「社会意識」に傍点]の理論にはいる処にまで来ていない。そういう意味で今の場合は、イデオロギー論の前史にぞくするものといって好いだろう。――私はこういう心理学的イデオロギー論に因んで、現在のフランスの一群の心理学者達(リボーやポーラン)を思い起こすのである。
この書物を読んで私は様々な種類の喜びを感じる。イデオロギーの研究でこれまで一等欠けていたのが、あたかもこうした実質のある歴史的叙述だったからである。又、これによってイデオロギー論の心理学や人間学に対する連関をハッキリと示すことが出来るからである。そして最後に、こういう研究にもっとも便宜を有っているアカデミー社会学の一角から、一流の気むずかしさや萎縮を蹴破って、新鮮な仕事が発表されたのを見るからである。これは三部からなる研究の一部だそうであるが、第二部第三部が早く出版されれば好いと考える。
[#改段]
5 『唯物弁証法講話』
マルクス主義哲学或いはもっと正確にいうならば唯物弁証法を、もっとも入り易い形で与えて呉れる本はないか、とよく私は色々の人から尋ねられる。しかしこれは中々簡単に答えることの出来ない質問なのである。入り易いということは、単に読み易いとか考えずに理解出来るとかいうこととは別なのだ。それは無用なペダントリーがないということだが、それと同時に、濁った信用出来ないような変な命題にぶつからないことの方が理解を容易にするためにはもっと大切である。そればかりではなく、我々の直接に経験している世界へ色々の命題を結びつけて呉れるのでなければ、理解は活きて来ない。
信用すべき教科書乃至参考書としては、すでにシロコフ・アイゼンベルクの『弁証法的唯物論教程』やミーチン・ラズウモフスキーの『史的唯物論』が翻訳されている。いずれもソヴェートの公認の書物で、国際的な価値を持っているのであるが、併し吾々は又吾々の手になった相当信頼すべき参考書が欲しいと思う。それは日本には日本に特有な特殊の文化的教養の与件があるからで、この与件にシックリと合った叙述を平明な然し澄んだ具体的な形でやって呉れる読み物が欲しいのである。
最近特にこういう要求に答えるために、少なからぬ人達が色々の唯物弁証法の読本を発表した。代表的なものとしては大森義太郎氏の『唯物弁証法読本』と、徳永直・渡辺順三・両氏の『弁証法読本』とを挙げることが出来ると思うが、永田広志氏の『唯物弁証法講話』は、これ等のものに較べて、今いった点でズット立ち勝ったものだと断言出来るのではないかと思う。
永田氏はいわば私達の友達仲間だから、あまり褒めることは遠慮するが、元来もっともすぐれたロシア語翻訳者であった。だが優れたロシア語翻訳者は実は今日では優れたソヴェート思想文化の紹介者にならなくてはならない。同氏はその随一者だ。それから永田氏の一般に哲学に対する又特にブルジョア哲学に対する教養も亦注意しなければならない。氏はこの道でも相当確実な理解者である。それから、こういう素養に基いて最近同氏は可なり前進力のある独自の研究家として現われ始めた。それは主に雑誌『唯物論研究』で発表した弁証法の諸研究(認識論・論理学・弁証法・の同一性に関するもの)を見ても判る。
で以上述べた同氏の三つの特徴がこの書物の内に非常に良く出ている。目次を見ると従来の翻訳された教科書と大同小異だが、叙述の内容は、現在の日本における学問上の又経済上・政治上・の諸問題を取りあげながら説明を進めている。又特に我々が最近問題にした哲学上の諸解決をば思いださせるように触れて行っている。例えば弁証法の根本法則の一つ「量から質への転化及びその逆」の問題とか、形式論理学の問題とか、認識論の問題とか、等々の場合がそれだ。個々の点については私の意見もあるがそれは今書けない。がとにかく、触れるべき問題にはお座狎れでなく触れているのを見て、悪くない気持を我々は有つのである。
もっとも便利な信頼出来る又甚だ興味に富んだ書物としては、単に初学者の入門書としてばかりではなく、専門家の研究整理用の参考書としても、私はこの本を勧めることが出来る。
[#改段]
6 『現代宗教批判講話』
わが国における現在の知能分子の内には、往々にして進歩的言辞を弄しながら、甚だしいのになると左翼的言辞をさえ弄しながら、実際には唯物論と何の関係もない頭脳が甚だ多く見出される。こういう頭脳を甄別するのにもっとも手近かな方法は、彼等が宗教に対してどういう態度を取るかをまず見ることである。もっとも彼等は初めから少なくとも既成宗教の同情者ではない場合が多いし、又その進歩的な模倣によって「宗教批判」をさえし兼ねまじいのだが、そうする裏から、宗教的・神学的・形而上学的・そしてやがて又文学的な信仰[#「信仰」に傍点]を露出して来るのである。そこに着眼すれば間違いはない。
彼等は宗教批判[#「宗教批判」に傍点]という、この唯物論の恐らく最も大きな使命の一つを、徹底する意図を決して有つことが出来ない。彼等が気にかけるのは、単に進歩的(?)に見えるかどうか、つまり気が利いているかどうかであって、決して、理論的に唯物論的であるかどうかではない。宗教批判などは、彼等によると、既成宗教の批判としてはバカバカしいものだし、宗教一般に対する批判ならば大した必要のあるものではないと考えられる。
だがこうした一種のインテリゲンチャの好みなどとは関係なく、わが国の反宗教闘争の運動は決して四年や五年の歴史ではつきない本当の無神論が唯物論の名において展開されるようになってから既に相当の時間が経っている。処で併し、その理論的成果は今度初めて纏って本になったといってもいいと私は考える。なぜなら唯物論に立って、宗教問題を統一的に理論的に取り上げたわが国の書物では、何といってもこれが最初のものなのだから。
内容は大体三つの部分に分れるといっていい。第一は宗教一般に関する唯物論的研究の綱要的な紹介、第二は日本宗教史の叙述、第三は現代の宗教復興の批判。
第一では、アニミズム・トーテミズム、から始まって民族宗教・世界宗教・への発展を、実証的に又歴史的に更に又哲学的に解明している。これを貫く何よりも大切な点は、こうした宗教の発展段階がすべて社会の生産の発展段階に相応するものである所以を、組織的に論証して行っていることである。この部分は纏った宗教学教科書として役立つだろうと思う。
第二の部分が、唯物史観による日本宗教史の唯一のものだという点に就いては、世間は殆んど疑問を挾む余地を持つまい。唯物史観に立たないものでも、こう手短かに且つ体系的に纏った日本宗教史はそんなにザラにはないのではないかと思う。そればかりではなく、唯物史観から行けば当然なことだが、読者はこの部分に実は手短かなそして特徴的な日本社会史のプロフィルを見ることが出来るだろう。著者はこれを書くのに、日本における若い専門家達の新しい業績を可なりの注意を配って採り入れているように見受けられる。これは今後大いに利用されるだろう部分である。
第三の宗教復興批判は、近頃の快事に数えねばならぬ。現在の宗教論者の論理的ナンセンスと露骨な階級的意図が、見事に裸にされている。これは宗教復興現象に対する総決算になるといっていい。
併し、この本で欠けているものは宗教思想史[#「思想史」に傍点]である。之亦唯物論にとって見逃すことの出来ない課題である。唯物史観による日本宗教思想史は、処で最近三枝博音氏が手を着けている。尤もその際氏の唯物論はまだ動揺を免れないらしいが、氏が材料を征服し終る時が近い内に来ることを吾々は期待してよいと思う(なお日本宗教史の研究では「日本宗教史研究会」から論文集が出ている――『日本宗教研究』及び最近の『寺院経済史研究』)。
著者秋沢修二氏(永田氏に就いてはすでに前に書いた)が哲学的教養に富んだ徹底した唯物論者であることは、以前から知られている。そして宗教批判こそは氏の得意の壇場なのである。私はこの書物によって唯物論的に甚だしく啓発されたことを、素直に断わっておく。
[#改段]
7 『現代哲学辞典』
三木清氏が編集代表となり、他に甘粕石介、樺俊雄、加茂儀一、清水幾太郎、の四氏を編集委員とする『現代哲学辞典』が、出版の運びに至った。現代哲学研究会という或るグループを中心としての仕事であるが、この研究会のメンバーには文化上の各方面の新鋭な代表者が少なからず含まれている。その各々は夫々の専門領域をば広義に於ける現代哲学[#「現代哲学」に傍点]へ結びつけることを忘れない人々なのである。現代哲学辞典というようなものの編集執筆には、打ってつけのスタッフだと云わねばならぬ。執筆者は三十二名である。
この辞典の第一の特色は、序言にもある通り、Vierkandt の 〔Handwo:rterbuch der Soziologie〕 の編集方針に倣ったという点にある。即ち比較的少数の項目によって、最も必要な事項を網羅するというのがその建前であり、夫々の項目が比較的に詳しく説明されることによって、項目として現われていない諸問題概念も、おのずから取上げられるという仕組みである。六十七項目の内に含まれた諸事項に就いては、別に邦語及び外国語による索引が与えられていて、検索することが出来るようになっている。人名についても同様である。つまりこの形式の編集による辞書は単に検索を目的とするだけではなく、却って通読又は翻読されることを目標とするものなのだ。引く辞引であると同時に読む辞典である。この点を徹底したものとしては、日本で最初の辞書だろう。
だから之は単に辞典であるばかりでなく、又一つの総括的な単行本と考えられていいのだ。現代哲学に就いての総括的単行本である。現代哲学という意味は併し、単に現代の哲学を指すだけではない。現代にとって生きた意味を持つ処の哲学を指すのである。そして哲学と云っても学校式な意味に於ける所謂哲学だけを指すのではなく、一切の文化・思想・学術・の根柢を一貫する統一的な脈絡物を意味する。そういう意味での広義の哲学だ。で例えば階級論とかインテリゲンチャとか、経済学・言語学・考古学・ジャーナリズム・新聞・政治学・戦争・地理学・民俗学・及び土俗学・其の他其の他の項目が含まれている。この種の項目を副次的な参照としてでなく、正面からその哲学的ヴァリューに於て評価尊重したことは、この辞典が誇ってよい態度だと思う。こういう編集方針を取ったということは、この辞典の編集が可なり卓越した見識に基いていることを物語っている。
かかる編集上の見識、それは又執筆者の銘々に共通な見識なのだが、この見識はそれ自身一つの哲学的態度を意味している。そこにこの辞典のもつ哲学的意義の要点があるだろう。少なくともかかる哲学的態度は、諸分科に分れた文化を総括し組織づけ得る処のエンサイクロペディスト的な能力を意味する。それが無意味な、何でも屋主義に陥らぬためには、思想の相当高度の蓄積発達を必要とする。でこの辞書に現われた哲学的態度なるものは、日本の哲学界・思想界・乃至文化圏・が今日相当発達したという事情に照応するものと推定することが出来るだろう。学術の技術的なアカデミックな水準と思想的な水準とを能く接合し得たものが、これを貫く見地である。
従ってここに一貫する哲学的見地は、勿論相当に進歩的なものなのである。執筆者の顔触れから云っても、その大体の内容から云っても、そう云うことにさし閊えはないだろう。云うまでもなく各執筆者も編集委員達も客観的公正を厳守している。それは辞書として当然であり、又思想・学術・の建前からしても当然なことだ。見解の客観的公正を厳守するが故に、進歩的見地に立たざるを得ないわけだ。
だが進歩的見地に立つと云ってもその進歩の
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