額剰余の拡大」に傍点]が、価値の唯一の現実的な量だと考えられる。価値が現象する形態はそうだろうが、では価値の客観的な尺度[#「客観的な尺度」に傍点]はどこから出て来るのであろうか。――尤も博士によると、価値は一つの経済理念[#「理念」に傍点]と考えられている。之は現実の差額剰余(価値)や価格に対しては云わば物自体又は本体のようなものに当るだろう。併し博士の理念は現実に対しては当為(ゾルレン)だということになっているから、此の理念の機能は云わば(カントの意味に於て)反省的であって規定的ではないだろう。之はだから無論価値を限定する尺度としての価値ではあり得ない。それにゾルレンの対象としてのイデーは本当は客観的とは云われないから、この理念価値の客観的な尺度では到底ないわけである。一般にこうした現象主義は資本制末期に於ける経済理論の意味ある共通特色ではないだろうか。
 私は紹介しようと思いながらつい下手な感想に終って了ったようである。而も専門的知識のない私が大急ぎで読んだ感想なのだから、恐らく大きな誤解もあることだろう。之は儀礼からではなく陳謝しなければならないことだ。
 実は私は津々たる興味を以てこの学位論文を読むことが出来たのである。一体学位論文というものは普通こんなに退屈しないで読めるものではない。博士の実際家らしい板についた引例や多量の学殖は、後学の徒に学的な野心と刺激とを与えずには置かないだろうと思う。私も亦こういう後学の徒の一人でありたいと願っている。
[#改段]


 3 新明正道編『イデオロギーの系譜学』


 イデオロギー乃至イデオロギー論という言葉は、少なくとも言葉としては随分広く今日は行なわれているようである。沢山の人が口にするということが必ずしもそのことが理解されていることではなく、ましてそのことの理解を進めることでないのは云うまでもないが、併しそういう、言葉が流行るということは、一つの必然性と客観性とがあってのことである。
 一方に於てはマルクス主義の大衆化に伴う社会意識の進歩がマルクス主義的イデオロギー理論を結果し、従来文化哲学や文明批判や又一種の心理学によって取り扱われて来た対象は、今やイデオロギーとして取り上げられる。処が之は、従来のブルジョア社会理論特にブルジョア社会学、の独自の領域を犯すことになるのだから、そこで第二に、ブルジョア社会学は、之に対抗するために、文化社会学とか知識社会学とかいう名の下に、「社会学的」なイデオロギー論を造り出した。
 今日、イデオロギー乃至イデオロギー論というテーマが流行っているのが、こうした客観的情勢から必然的に出て来たものであることは、誰でも知っている。――処で、この頃は、流行るものは何でも却って評判を悪くする傾きがある。というのは「批判者」達は、何でも盛んに行なわれているものに対して、単に盛んに行なわれているというだけで、批判[#「批判」に傍点]したくなる傾きがあるようである。そういう理由からかどうか知らないが、イデオロギーやイデオロギー論というテーマは、必要以上に、無理に批判されなければならないように仕向けられている。その癖そういう批判者は、マルクス主義的イデオロギー論をブルジョア社会学のイデオロギー論から擁護する必要がどこにあるかも知らなければ、ましてイデオロギーの歴史的社会的発展展開の姿を分析し得るのでもない。またイデオロギー理論の歴史的発達を跡づけるという仕事を実践しようとするのでもない。
 東北帝国大学の社会学教授新明正道氏は、同教室の陳紹馨・飛沢謙一・の両氏と共に、『イデオロギーの系譜学』(第一部)を公にした。之はイデオロギー理論の近世に於ける発達史を辿る目的のもので、マルクス乃至エンゲルスと直接には関係のない時代を取り扱った部分であり、やがて、公にされる第二・第三・部ではフォイエルバハから始めて、マルクス・エンゲルス、及びその後のイデオロギー理論の発達を追跡しようとするものである。
 新明教授は、正統派的(?)なマルクス主義者ではあるまい。他の二人の共同著者も亦そうだろうと思う。それにも拘らず、イデオロギー理論の歴史的[#「歴史的」に傍点]な追跡は、一二の視角の小さな洞察の乏しい文献を外にしては、マルクス主義者によっても組織的に遂行されていないのではないかと思うが、恰もこの書物の著者達は、この欠陥を埋め合わせるために、この仕事に取りかかったように見えるのである。
 だから吾々は之を批判するよりも先に、之を紹介[#「紹介」に傍点]することを先にしなければならないわけで、客観的な必要から云っても、又この仕事の功績に対する敬意から云っても、そういう順序にならなければならないのである。
 私はすでに『東京朝日新聞』でこの書物を紹介した(次項)。だから紹介としてはさし当り夫を繰り返す外はない。――マキャヴェリはその『君主論』に於て、〔君主〕に必要な譎詐・欺瞞・狡知・を分析し、権謀術策の原理を授けているが、その結果は計らずも〔君主〕の陰険な心事を暴露すると共に、一般に人間性の虚偽性を暴露している。之は人間論的虚偽論[#「人間論的虚偽論」に傍点]に外ならない。新明教授はここにイデオロギー論の近世に於ける最初の企てを見て取る。之は同時に一種の心理学的イデオロギー論[#「心理学的イデオロギー論」に傍点]でもあるわけだ。
 ベーコンになると事情は少し異って来る。F・ベーコンのイデオロギー論は例のイドラ[#「イドラ」に傍点]の理論に外ならないが、之はマキャヴェリのものなどとは異って、もはや単なる人間論的・心理学的・なイデオロギー論又は虚偽論ではない。四つの偶像がどれも社会的関係から解明されているのである。だから之は、今日行なわれている意味でのイデオロギー・社会意識[#「社会意識」に傍点]・の理論の先駆をなすもので、ただ夫が社会の分析の上に積極的な基礎を置いていないために、遂に本当のイデオロギー論にまで展開しないで終ったものだ、というのである。
 フランス啓蒙哲学に就いては、コンディヤックやエルヴェシウス、ドルバックの、認識理論又道徳理論が、一種のイデオロギー論として引かれている。その理由は、こうした意識諸形態を彼等は感覚や欲情や感性などという物質的根拠から説明しようと企てたからである。無論この場合は、イデオロギー論の萌芽とは云っても、殆んどイデオロギー論とは認めなくてもいい位いに不完全な、萌芽でしかない。イデオロギー論だとして、之は全くの[#「全くの」に傍点]心理的なイデオロギー論でしかない。
 イデオロギーという言葉の歴史的発展、否、歴史的変遷、を見るためには、ド・トラシの「イデオロジー」の解説は是非とも必要である。イデオローグの思想をこれ程纏った形で与えて呉れたのは、手近かには一寸ないのではないかと想像する。
 最後にシュティルナーとニーチェとの思想が、イデオロギー論として解明される。自我の内から既成の固定した観念を追放し唯一者の固有な所有に立ち帰らなければならない、というシュティルナー。真理や道徳が権力意志の本能的な創造的な而も功利的な基底に基く一つの上部的成果に外ならぬと考えるニーチェ。この二人の天才は近代に於けるイデオロギー論の(マルクス主義は除くとして)最も影響の大きいものを与えている。シュティルナーのイデオロギーはすでにマルクスによって取り上げられているし、ニーチェの如きは、主人の道徳と奴隷の道徳とを対比させている。
 さて以上挙げた思想家達のイデオロギー論は、彼等の夫々の一般的思想の内から浮き出た姿の下に捉えられている。そしてこの諸イデオロギー論そのものが夫々一つのイデオロギーとして、夫々の時代の経済的・政治的・社会的・文化的・地盤から、合理的に説明されるように、努力が払われている。――新明教授の叙述は各思想家の思想内容の内部的連関を明らかにする点に於て、中々優れた文学的手腕を示している。之に対比して、他の二人の著者は、唯物史観の定石を良心的に定式的に、踏もうと力めているように見受けられる。ただ、思想の根柢をなし背景をなす経済的・社会的・政治的・条件が、如何に思想そのものの機構にまで反映しなければならなかったかの説明に就いて、多少のギャップが気にかからぬでもない。
 各章を通じて見受けられる特色は、著者達がイデオロギー論を人間論[#「人間論」に傍点]との連関に於て捉えているという点にある。というのは、嘘をつき虚偽や誤謬を犯す人間性の一側面を、取り出そうとする人間論が、イデオロギー論として挙げられているのである。そういう意味ではイデオロギー論は「心理的なイデオロギー論」に帰着し、又それに止まらざるを得ない。実際この書物で挙げられた思想家のイデオロギー論は、多少の例外を除けば、どれも心理的なイデオロギー論に外ならないのである。だから、ここで取り扱われたものは、社会意識としてのイデオロギーを論じる本格的なイデオロギー論に対して、云わばイデオロギー論の前史[#「前史」に傍点]に当る部分と云って好いだろう。第二部第三部に本格的なイデオロギー論の歴史が展開される筈である。
 聞く処によると、この書物は東北帝大の社会学研究室に於ける演習の成果だそうである。吾々はこのように活発な活動をし始めたアカデミーに対して、もう一遍評価のやり直しを試みなければならなくなるかも知れない。
[#改段]


 4 再び『イデオロギーの系譜学』


 東北帝大社会学教室は今度、新明正道教授外二名の手になる『イデオロギーの系譜学』(第一部)を世に送った。まず最初に取り上げられるものはマキャヴェリの思想、特にその政治学的権謀術策論であって、彼が、君主に権謀術策を献言することによって計らずもその欺まんの機構を暴露する結果となり、イデオロギー論の先駆をなしたゆえんが説かれる。
 ベーコンのイドラの理論がその前後の思想家達のものに較べて如何に社会学上約束に満ちたイデオロギー論を含むかが、次に明らかにされる(第二章)。第三章では、フランスの啓蒙哲学について、コンディヤックの感覚による認識の解明と、エルヴェシウスの自愛による道徳の説明、それからドルバックの感性による道徳の説明が、イデオロギー論の至極不完全な萌芽として見られている。
 第四章として※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入されたド・トラシの「イデオロジー」の項目は、イデオロギーという言葉の歴史的淵源を明らかにするためのもので、最後の第五第六の二章はそれぞれシュティルナーとニーチェとの解説に当てられている。前者は自我の内から一切の既成の固定観念を追放し、唯一者の独自の所有に立ち帰れと叫ぶ点において、又後者は、真理や道徳が本能という権力意志の創造的な功利によって評価されねばならぬと主張する点で、不完全ではあるが天才的なイデオロギー論を示すものとして、挙げられているのを見る。
 これ等の思想家達のイデオロギー理論それ自身が、無論ここでは一つのイデオロギーとして、即ちそれぞれの時代の経済的・政治的・文化的・地盤から相当によく説明され又批判されているのである。
 さて、以上挙げた思想家達が特にイデオロギー論の先駆者として選ばれた理由は、多分、彼等が虚偽論乃至誤謬論に対して著しい興味を示しているからだろう。実際イデオロギーという概念のもっとも挑発的な点は、それが虚偽意識[#「虚偽意識」に傍点]を意味するという所に横たわっている。従ってここに展開された思想史は、単に「イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]論の系譜学」であるばかりではなく(『イデオロギーの系譜学』というタイトルよりもこの方が適切ではなかったかと思うが)、うそ[#「うそ」に傍点]をつき虚偽を犯し誤謬に陥る限りの、人間性を描きだそうとした人間学[#「人間学」に傍点]の系譜学でもあるように見える。
 所で、マルクス主義的イデオロギー論に先立つこれ等思想家達の「イデオロギー論」は、一つの共通の特色を有っている。それは、ベーコンなどの場合を除けば、ど
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