。次に併し最も重大なのは、工業生産の極度の機械化である。工作機械と測定機械との充分な充用である。それは当然工作機械の専門的分化(万能工作機の回避)が必要である。之によって精度は量的に向上するばかりでなく質的に転化を遂げる。と云うのは、専門的に分化した工作機械に於ては、問題は単に機械そのものの精度に限定されることなく、製作品そのものの精度の問題が正当に登場することが出来るのであって、ここに初めて、工作機械自身の本当の実際的な精度が高められるからだ(「機械工業と生産費」――『科学主義工業』〔一九三七年〕十一月号)。
 さて製品そのものの精度の向上こそは、コストを引き下げる最も科学的な要点である。つまりこのようにして精密工業生産の精度を高めることが、科学主義工業の科学主義工業らしい面目なのである。精度が向上するということは処で、所謂熟練[#「熟練」に傍点]が機械によって取って代わられるということだ。だから、機械が熟練にとって代わるということが、科学主義工業の建前である、とも氏は定義しているのである(熟練の大衆化)。この点、五年も前には夢にも思わなかったことだと氏は云っている。博士の最近の思想であるこの「科学主義工業」にとって、この要点がどんなに重大な個処をなしているかが、ここからも判ると思う。――之によって所謂熟練工の問題も原則的には解消するし、農村に於ける工業の合理的基礎も置かれると氏は説いている。なぜというに、元来、科学的工業立地の上から云って、比較的運賃を食う農村には、価格に較べて出来るだけ運賃の安い製品ほど生産に適しているわけだが、処が恰もそういうものは、精密機械の部分品でなければならぬ。処が今云ったことから、そうした精密工業生産に於ける所謂熟練は、科学主義工業のおかげで機械がとって代るのであるから、この農村に科学主義工業的な施設(精巧で分化した工作機械その他)さえ設けられれば、精密機械の部分品は、熟練の不足な素人農民のための、この上ない工業生産となり得るわけである。
 だが所謂科学主義工業、つまり科学的研究の成果を思う存分充用した工業、がコストを何等かの形で引き下げるということは、要するに常識的に見当のつくことだ。大河内氏に聞くべき点は、それがどういう実際的な内容に於て行なわれ得るかということだ。そこでは博士の機械学者らしい専門的知識(博士の元来の専門は兵機であり又内燃機関である)が、常識に見ごとな解答を与えて呉れる。――だが、常識でも何でも理解出来ないのは、例の高賃金の方だ。なぜ科学主義工業は必然的に高賃金を結果しなければならないのか。賃金の方も低くして、愈々コストを下げるということが、なぜ科学主義工業の精神に矛盾するのか。なぜその代りに資本主義的工業に近いのか。そしてなぜそういう意味での資本主義工業(?)が誤っているのか。それがどう考えて見ても、大河内氏の説明から判断しかねるのである。
 私は今、『農村の工業と副業』に関する前出の私のブック・レヴューの一節を多少補足訂正しながら引用する方がいいように思う。――曰く、ではなぜ科学主義工業によると高賃金となるか。この証明は直接にはどこにも見出されない。唯一の理解の余地は之を農村労働力の能率[#「能率」に傍点]に結びつけることだろう。つまり労働力の能率がよければ低コストとなるとともに、他の条件が同じならば名目上高賃金の意味を有つだろうからだ。そこで氏曰く「そうして其(工作機械や測定機)の使い方が単調無味であるように製作されてある程精密に加工されるから、農村の子女が最も適当している。」「毎日毎日同じ作業をするということ、而して此の簡単な作業に、飽きることを知らない農村の子女が、農業精神で精密加工するから。」「都会の人には堪え得られないような単調な作業でも、農業上の労苦忍耐の前には、日常茶飯事である。」「日本の農業精神は土に親しみ郷土を愛し奉公の念に満ちている。外国から移し植えられて数十年にもならない日本の現代工業には残念ながらまだこの種の精神的基礎が出来ていない。」「欧米の工業は資本主義、個人主義下の工業であって、日本の農業精神とは相距ること頗る遠い。」「農業精神が失われずして工業が副業として行なわれる」ことが望ましい。「農魂工才で行かなければいけないのである。」等々。
 私のブック・レヴューからの引用はこの位いにしておこう。ここで気のつく第一のことは、恐らく高賃金の唯一の原因であり得るだろうと思われるこの農村労働力の能率は、もはや決して、科学主義工業というものの一般原則には含まれていないということだ。それは専ら日本の特有な条件であり、そして日本の農村の特有な条件であるらしいということだ。科学主義工業はドイツや北ヨーロッパの科学者や技術家の提唱に負う処が多い筈であったのに、その必然的な属性の一半であるべき高賃金という要因が、日本の、而も日本の農村の、特有な事情に基くということは、何としたことだろうか。
 そして第二に気のつく点は、ここに突如として「農業精神」が出現して来ることだ。つまり農民の忍耐力がその唯一の根拠であったということだ。だが農業精神と名づけられる農村労働力の忍耐力は、一体科学主義工業に於ける科学[#「科学」に傍点]とどんな関係にあるのだろう。だが一方に於て日本産業の海外発展という目標を持ち、他方に於て何等かの意味での社会正義――それはやがて社会的な道徳[#「道徳」に傍点]ともなる――という目標でも持つとすると、この二つのチグハグなものを、観念的に結びつける観念は、全く農業精神というようなものでありそうなのは、蓋し現代の一部人士の常識ではないか。然り、一部人士の常識[#「常識」に傍点]だ。だが決して科学[#「科学」に傍点]ではあり得ない。科学主義工業は、高賃金という名目上の属性を必然的ならしめるためには、日本農民のやや憐むべき道徳[#「道徳」に傍点]を援用しなければならぬ。科学ではなくて道徳をだ。
 農村工業が何故特に副業[#「副業」に傍点]でなければならなかったかも、全くこの日本農民の道徳[#「道徳」に傍点]のおかげであって決して科学主義工業そのものの科学のおかげではない。大河内氏は、農村工業化の非を覚って、科学主義工業による農村副業論に到達した。この非を覚ったことは、資本主義工業から科学主義工業への転向かと思われたのだが、今や必ずしもそうではない。どうも工業的精神から農業精神への転向であるらしいのである。するとつまり、却って科学的なものから道徳的なものへの転向でもあるらしい。実際博士によると、工業的精神は資本主義的で、農業精神は科学主義的であるようにも見える。欧米の工業は資本主義個人主義のもので、日本の農業精神とは相距ること頗る遠いと云っているのである。
 でこう見て来ると、所謂低コスト高賃金の科学主義工業は、一般的な科学主義工業ではなくて、単に日本的[#「日本的」に傍点]な科学主義工業だということになる。すると一般の科学主義工業では、やはり私の云う通り、低コスト低賃金の方が科学主義[#「科学主義」に傍点]的により合理的だということになるのである。日本の科学主義工業を離れて一般の科学主義工業など何の意味があるか。吾々は抑々日本人ではないか、と云われるかも知れない、全くその通りである。だが如何に日本的な科学主義工業の観念であっても、科学主義工業である以上は、科学的でなくてはならぬ。大事な処に、農業精神というような、精度を計ることも出来なければ原価計算も出来ないようなものを持って来るのでは、少なくとも日本的科学主義[#「科学主義」に傍点]工業ではあり得ないではないだろうか。
 私は博士が「農村工業」から科学主義工業への転化を進歩であると云った。だがもしその進歩が、一種の社会正義的な常識や農業精神による能率への期待というような精神主義の助けによるものであり、丁度科学主義工業が熟練をば機械によって置きかえたように、この正義感や精神主義的理想を理論によって置きかえ得るのではないなら、之は感情と情緒の上での進歩ではあっても、この点に限って理論的には決して進歩でないと云わねばならぬ。大いに革新的[#「革新的」に傍点]であるかも知れないが、進歩的とは云えないようだ。
「大資本の株式会社であると、すぐ資本主義に堕するように思えるが、科学主義工業下の資本は、資本主義下の資本と異り、情実と私利から離れて、唯科学の指示する処に従って合理的に運用せられるに過ぎない、」と云っているが、その「大資本の株式会社」とは一体資本主義[#「資本主義」に傍点]の意味に於ける株式会社であるのかどうか。まさか株式会社そのものが科学主義的[#「科学主義的」に傍点]であるとは云えないだろう。もし株式組織そのものが科学主義に依るべきならば、氏はその方針を科学主義工業の重要な一項としてつけ加えた筈だからだ。科学的な株式募集や科学的な配当法やを決定せねばならぬ。恐らく現行商法を科学主義的に改革しなければならなくなるだろう。して見るとどうも株式会社自身は資本主義的な商法に則った株式会社の謂であろう。資本主義に則った株式会社の資本が、「資本主義下の資本と異る」とはどういう意味か。「情実と私利」を除くことによって、資本主義的資本が他の資本に転化するとは信じられない。勿論資本主義を離れても企画[#「企画」に傍点]ということは成り立たねばならぬ。だが大河内氏の科学主義工業は、資本主義的でない[#「ない」に傍点]処の社会的企画を立ち処に確立出来るというのであろうか。
 資本主義に対立するものを科学主義と考える処に、一切の困難と矛盾とがあるのである。資本に対立するものが即ち科学だという観念は、資本主義下に働いている技術家が、最も自然発生的に感得する一つの知恵だろう。技術家は自分[#「自分」に傍点]の科学が、常に資本家の資本に対立することを意味する。そこで資本対科学と考えたくなる。だが豈計らんや、この資本と科学との対立こそ、資本主義の上での対立だったのだ。私は一般にテクノクラシー的観念の発生を、こういう風にして説明出来ると考える。わが大河内博士の「科学主義工業」的観念も亦、日本的な農本主義によって色揚げされたテクノクラシー的観念の一つではないかと、推察するのだ。
 科学主義[#「科学主義」に傍点]という言葉が抑々、妙なものである。本当の科学的精神[#「科学的精神」に傍点]は科学主義などという言葉に本能的な不純さを感じるだろう。それは科学の専門家に特有な或る制限された観念を象徴している。特に自然科学専門家の、専門家なるが故に制限された科学的精神を象徴する様だ。之は文学主義[#「文学主義」に傍点]と好一対の仇名として相応わしいだろう。
 だが私は大河内博士の「科学主義工業」の観念の背景をなす社会的地盤を検討出来なかったのを残念に思う。
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(博士は雑誌『科学主義工業』十二月号から、「資本主義工業と科学主義工業」という論文を執筆している。今の処まだ要点に触れる処まで議論が進行していない。だがすでに気になるのは、産業革命を単に科学の発達の功績に帰しようとし勝ちな点の見えることだ。その科学の発達自身が、却って技術的社会的な要求に基いて行なわれたという、より根本的な関係にあまり注意を払わないらしいことだ。科学から第一テーゼを出発させるという意味で、ここでも氏が科学主義[#「科学主義」に傍点]的な工学者であることを、吾々は忘れてはならぬ。)
[#ここで字下げ終わり]
[#改段]


 ※[#ローマ数字4、1−13−24] 書評




 1 マルクス主義と社会学
[#ここから7字下げ]
――住谷悦治氏の『プロレタリアの社会学』に就いて――
[#ここで字下げ終わり]


 元来「社会学」なるものは、近世ブルジョアジーがその市民的生活の自己認識を一般化するために造りだしたところの、ブルジョアジー特有の、一種の告白科学だともいうことが出来る。それは市民生活の理想のための内的闘争と未来への希望とから、始まった。この
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