べき所謂理研コンツェルンが、他の資本活動に較べて著しく自覚的に科学的であったということも、亦広く知られた事実だ。つまり、強いて云うなら、そこにはすでに、工業が科学的な自覚の下に企画されたという特色を有っていたのだ。之を科学主義工業と呼んで呼べないことはなかったろう。だがそれが特に「科学主義工業」という建前として自覚されたのは、即ちそういう観念が実地に確立されたのは、大河内氏によるのであり、そして特に最近の[#「最近の」に傍点]大河内氏の産業哲学的反省によるのである。
 大河内氏の初めからの観点は、科学主義工業ではなくて、寧ろ「農村工業」ということであった。農村の工業化[#「農村の工業化」に傍点]という問題が、数年前の日本に於て、一つの産業政策上の思想として唱えられ、夫が中小工業政策論と農村問題との結合点として或る程度の希望をつなぎ得たことがあった。これは当時の識者にとって可なり魅力のある着想であるように見えた。一時当局も亦全く問題の解決をこの着想に求めようとするように思われた。尤もその後の成績によって見ると、遂に農村工業化という観念の実地に於ける失敗に帰したことは、かつて当事者が告白した通りであるが、併しこの観点の魅力はそれだけで消えてなくなるものではない。処で当時、農村工業化・農村工業・の観念の最も有力な代表的提唱者が、他ならぬかつての大河内氏であったことは、人の知る通りである。それはまず今から三年程の昔である。その時著わされた大河内氏の著書は『農村工業』という名であった。
『農村工業』時代の氏は、決して科学主義工業家ではない。工業の科学化、或いは寧ろ、工業の最も科学的な精華と云ってもいいかも知れない精密機械とその部分品との製造という、極めて「科学的」(?)な課題から出発しているのであるが、まだ科学主義工業家ではないのである。理研の科学的研究によるパテントは至る処に、理研関係の生産会社によって実施された。そして夫が農村工業の問題を解決するようにも見えた。例えば理研ピストンリング株式会社などがその模範的な一例として、広く社会に紹介された。特に農村の只中に横たわる柏崎工場の例は有名だろう。だが之は、その高度の技術充用にも拘らず、決して科学主義工業にはぞくさない。寧ろ、科学主義工業に対立すべきであった処の、従来の「資本主義工業」の旧観念によって貫かれていたものだ。
「農村工業」(「農村工業化」)の観念は、大河内氏にとっての初めの観念だ。農村に於ける工業の問題、或いは又、工業の農村化・地方化・の問題は、初め「農村工業化」という形で解かれようとした。だがそれの社会問題解決としての実地の総体は、失敗に帰したことをすでに述べたが、氏によるこの観念も亦、破綻せざるを得なかったらしい。世間は嘗て柏崎工場の如きに於ける農村工業化の現実が、如何に模範的に低賃金であったかを問題にしたが、之は大河内氏の「農村工業」の観念にとって恐らく有力な反省の動機ともなったろう。今や氏はかつての「農村工業化」という観念を清算する。之は資本主義工業にしか過ぎなかった。そして之に代わる新しいイデーが、科学主義工業だ。科学主義工業に立つ時、「農村工業」や「農村工業化」や「工業の地方分化」という公式は、「農村の副業としての工業」という公式に変らねばならぬ。
 かくて今や科学主義工業家としての大河内氏は、みずから『農村工業』を批判して云っている――
「農村工業は農村余剰労力を現金化するのがその主なる目的の一つであるとするならば、農村加工工業だけではどうしても其の目的が達せられない。其処に農産物以外のものを加工することが考えられなければならぬ。併し農産物以外のものを加工する工業は、農村と殆んど何等の関係を持たぬものである。農村に於て農家に少しも関係のない仕事が入り込んで来ることは、果して農村の機構や農村の精神に害を与えぬであろうか。……著者も嘗ては農村が工村化するのが、農村のために好いと考えた。併し今日はこれが非常な誤りであったことを、農村工業から得た体験によって自覚し得たのである。」(『農村の工業と副業』五五頁)。
 農村が工村化し、農村らしくなるのがよくない、という論拠であるように見える。して又なぜ農村の工村化が悪いかは、氏にとっては極めて深い「精神的」な根拠があることであるが、それは後に見よう。だが真の欠点は、そこにあるのではなくて、その裏にあるのである。氏は云っている、「工村と迄行かずとも、半農半工の村を造ると云うことは、農村の余剰労力を賃金化しようと云う考えから出る。そうして此の案の裏には、どうせ余っている労力だから、労賃は安くて好い、低賃金だから低コストで生産されると云う考えがひそむのである。」「著者も亦今から三年も前迄は、そう考えていた一人であった。」(五八―九頁)。
 三年前の著『農村工業』をこの著者は引用する。「農村の労銀は大体に於て今日は大都市の三分の一である。而も三倍の労銀を得る大都市の労働者の方が、生活は却って遙かに困難であって、半農半工の農村の方が遥かに恵まれている。」「大都市の大工場を幾つもの小工場に分割して、地方に分散せしめるのは農村工業のもっとも容易なやり方であるが、然しそれではまだ農村の廉価な過剰労力[#「廉価な過剰労力」に傍点]の真の利用にはならない」云々。――こう引用した著者は、この言葉がみずから「慚愧に堪えない」と告白しているのである(六〇頁)。
 つまり「農村工業」時代の大河内氏は、低賃金という利益を以て、その工業政策観念の支柱とした。だから之は資本主義工業の観念に他ならぬというのである。之に反して、科学主義工業は、「高賃金低コスト」を目標とするものでなければならないというのだ。

 かくて氏は過去の工業政策観念を清算して初めて科学主義工業の観念に到着したのである。云うまでもなくこの変化は注目に値いする。一つの大きな前進であり進歩と云わなければならぬ。そしてこの進歩を云わば余儀なくしたものは、農村工業の問題そのものである。だから実際を云うと、前にも述べたように、科学主義工業の観念と農村工業問題との間には、氏の場合にとって、切っても切れない因縁がある。だが、それはとに角として、一体、科学主義工業という一般観念は、原則的にはどういうものであるのか。
 科学主義工業が資本主義工業に対立することはすでにのべた。資本主義工業は科学を資本の偉力の下に屈せしめ、工業を資本の要求によって歪曲し停滞させ非能率化する。科学的研究と発明とを聡明に利用するだけの勇気を有たないから、低コストを欲すればまず第一に低賃金を要求せざるを得ない。それだけではない、事実に於ては低賃金にも拘らず、資本主義工業は正に高コスト以外のものを実現し得ていない。これでは国際競争場裏に立って、日本の工業が太刀打ち出来なくなるのは明らかだ。そこで科学主義工業であるが、之こそ正に低コスト高賃金を産む唯一の工業政策だというのである。
 なぜ資本主義工業が悪くて科学主義工業が良いのであるか。恐らく氏にとっても常識的には、資本主義の如きものの弊害は云うまでもなく良くないものであり、之に反して科学(主に自然科学のことだが)は立派なものである、からに相違ない。だが勿論そんなことは氏によって何かの根拠とされているわけではない。そういう一つの文化人的常識が事実動機になっているにしても、それを合理的論拠とするには、大河内博士はあまりに科学的だ。そこが政治家やファッショ壮士と科学者との異る点であろう。論拠は全く資本主義工業が低賃金高コストであるに反して、科学主義工業の方は逆に高賃金低コストになるからである。事実そうなっているのが現実だからというのである。ではなぜ低賃金高コストが悪くて、高賃金低コストが良いのであるか。併しここでも亦、氏は低賃金よりも高賃金の方が社会的な正義か何かであるからというような、「科学」外の論拠を持ち出してはいない。恐らくそういう現代の社会的通念が有力な動機にはなっているだろうが、併し之を以て合理的な論拠としようとするには、博士はあまりに「自然科学者」であるのだろう。氏の挙げ得る論拠は正に、そうでなければ日本の産業は国際的に太刀打ちが出来ないから、ということであるらしい。
 だがそうなら、寧ろ低賃金と愈々の低コストの方が一層増しではないだろうか。科学主義工業は、単なる高賃金低コストの代りに、低賃金及び益々の低コストの方が益々合理的[#「合理的」に傍点]ではないだろうか。私は博士の社会正義観の如きものを知らないではない。だがそれが合理的な論拠となり得ない限り、最も合理的な科学主義工業は、寧ろ低賃金低コストでなければならない、という理屈に落ちざるを得まい。して見ると、大河内氏式の「科学主義工業」よりも、もっと合理的[#「合理的」に傍点]な科学主義工業が可能なわけだ。いや単に思考の上で可能なだけではない。やがてはいつかこの社会に実現する可能性が大いにあろうというものだ。いつか大河内氏がその制限つきの「科学主義工業」の観念をもう一遍清算しなければならぬ時期が、来ないとも限らない。もし今そこまで観念として徹底しないのだとすると、科学主義工業の低コスト高賃金主義には、多分の社会正義か何かのイデオロギーが含まれていて、それが暗々裏に心理的な作用を(論理的ではない作用を)営んでいるのではないだろうか。そしてこの心理的な作用の主が、どうやって氏の「科学主義」の内に編入されるのか、之は私にとって最も興味のある点でなければならぬ。
 尤も、誰が考えても、低賃金高コストよりも、高賃金低コストの方が、合理的[#「合理的」に傍点]であろう。併しこうした関係の合理性は、つまり産業合理化[#「産業合理化」に傍点]の場合のような意味に於ける合理性なのであって、一般の抽象的な合理性ではあり得ない。と云うのは一定の政策的な目標に照して決って来る合理性だ。産業合理化はあまり賃金の社会的合理化(高賃金)のことは計算に入れない資本主義的習慣であるようだが、併しそれが科学主義に乗り替えることによって、この新しい産業合理化は高賃金を計算に入れなければならぬようになるというのは、どういうわけだろうか。日本の産業が国際的に太刀打ち出来るようにという目標によって、立派に科学主義的工業の合理性は設定され得る。この合理性に照して、最も合理的なるものは、低コストと同時に又より以上の低賃金ということではあるまいか。そうでないとしたら、もっと何か別な目標に照して合理的である処の合理性が介入しているのでなくてはならぬ。ではそれは「科学」か。併し科学は低コストを必然にしても、低賃金であることを妨げる何物をも含まない。それとも社会に於ける一般的な合理性(正義感とか何等かの理想的精神の如き)にでもよるのであるか。だが大河内氏の科学主義に於ける科学はそういうものの合理性の支柱となれるのだろうか。
 低コストの必然性は、科学主義工業の観念によって、よく理解出来るだろう。それは次に見る。だが科学主義工業による高賃金の必然性は、どうも理解出来ない。そこには科学主義の科学以外のものがある。そしてそれは日本工業の海外発展という目標と必ずしも一致しないような或る社会正義的なものでさえあるようだ。もしこの二つを強いて結びつける観念を見出そうとするならば、どういうものがいいだろうか。勿論この結びつきは、本当は成功しないだろうから、単に観念的な結びつきで結構なのだが、夫は例えばどういうものだろうか。社会的常識によっても想像出来るものは、恐らく農村精神[#「農村精神」に傍点]という観念のようなものではないだろうか。――果して大河内氏は、そこへ行くのである。
 だがまず低コストの理論を見よう。ここにこそ「科学」の得意の世界がある。まず工業立地の科学性。原料・運賃・其の他一切のコストのファクターの総和を、最小にするような科学的工業立地である。之に対立する云わば資本主義的立地(?)は、科学的に無知な資本家の陋習と、既成社会の情実による合理化の不徹底とを意味している
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