ランスの国文学』として見ないで、これを同時代(コンテンポラリー)の文学として、世界文学の立場から見ようとしているものと、どこか一味通じている。」この言葉は多分当っているだろう。本書を繙いてまず感じることは、フランス文学の報告書であるこの本が、普通の現代フランス文学の紹介書のようにフランス文学だけに興味を持っているのではなくて、正しい世界文学的角度から之を問題にしているのだ、という点である。次に又気のつくことは、フランス文学を単に文学だけの興味から取扱っているのではなくて、正に文化[#「文化」に傍点]と思想[#「思想」に傍点]との観点から取り上げているのだという点である。著者がフランス文学に於て見ているものは現代世界文学[#「現代世界文学」に傍点]の一環であり、且つ文化上の思想対立[#「文化上の思想対立」に傍点]なのである。私は本書を、「文化問題」にかかわる最近の若干の単行本の一つとして、尊重すべきだと考える。今後新しい意味に於て、「文化問題」が社会の只中に押し出されるだろうと観測されるからだ。
 直接思想対立の現象を取り扱ったものは、最後の二章(第十三・第十四)の「左右両翼の主張」である。ミショオはここで左右両翼に対する可なり誠実な理解者であることを示している。そうでなければ、錯雑と交錯との綾を織りなしているフランスの思想対立をさばくことは出来ない。その手腕は鮮かだと云うことは出来ないが、その代り簡単に片づけたいという感は少しもない。そしてこのいい理解を通して、ミショオが略々左翼的な最も常識に富んだ進歩主義者であることを知ることが出来よう。「新古典主義、新スコラ主義、新ヒューマニズムの三者は、近代フランスに於て伝統主義者達と保守主義者達とが採用した三つの基本的な見地であるように見える。これらはいずれも興味ある見地ではあるが、しかし世界の進展を止め得るほど強力な見地でも、最も広い意味に於て社会的、道徳的、並びに科学的に世界の要求に答え得るほど普遍的な見地でもあり得ない。」そしてフランス文化の将来について云っている、「フランスに於ける政治的、社会的情熱の坩堝のなかに新しい活力が数多く醗酵しつつあるとともに、新しい徴候が続々と芽えつつある現在、我々は確信をもって未来を期待する」と。
 クロデル(第二章)、プルスト(第三章)、ジード(第四章)、デュアメル其の他(第五章)、ダダとシュールレアリスト(第九章)、ヴァレリ(第十章)、新旧の小説(第十一章)、などに関する章は、夫々独立した評論としても読み甲斐のあるものと思う。
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(一九三七年八月・第一書房版・四六判・四一六頁・定価一円五〇銭)
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 19[#「19」は縦中横] 大河内正敏著『農村の工業と副業』


 理化学研究所及び所謂理研コンツェルンの指導者ともいうべき著者が、日本の工業政策について技術家的専門家の立場から、最近の見解の結論を叙述したものであり、書き流した風の、而も小冊子ではあるが、重大な意義を含むものと思われる。節は十二に分れているが、凡てを貫くものは「科学主義工業」の観念である。ここに出て来る一切の主要問題を、この科学主義工業の観念に結びつけて惹き出すことが出来ると私は考える。
 科学主義工業とは資本主義工業に対立させられる。第一に之は、資本主義工業の事実上の状態である低賃金高コストに反して、高賃金低コストを目標とし、現にそれを実現しているという。世間では之をなお資本主義工業と同一視して、労働力の搾取の形式であるように非難する向きもあるが、処が他方では農村などで科学主義工業による賃金が高すぎて困ると云って非難さえされているのが事実であるという。著者大河内博士自身も、しばらく前までは農村工業が低賃金である故に有利だと考えていたが、今それは「慚愧にたえぬ」という。併し科学主義工業がなぜ高賃金であるかは後にして、なぜそれが低コストであるかから見て行こう。
 科学主義工業はまず工業立地の方針を科学的ならしめる。地方の情実や資本主義工業による様々の陋習に捉われず、原価を決定すべき一切のファクターを総体に於て最低たらしめるべく、科学的な工業立地を採用せねばならぬ。次に科学主義工業は熟練を科学によって置きかえ、熟練のために要する時間を出来るだけ短縮するような、専門的に分化した精密な機械(工作機や測定機)を採用する必要がある。この点科学主義工業が就中科学的である所以で、農村の素人の婦女子でも直ちに熟練出来るように、熟練の時間が節約出来る機械を工夫すべきである。そして之は農村に於ける工事場に於て、現に実現されているという。著者は之を「熟練の大衆化」と呼んでいる。工業の地方分散(五年前の著者の見解)は科学主義工業的ではない、日本の農村の物質的(そして恐らく精神的)条件に立脚した副業として農村工業[#「副業として農村工業」に傍点]こそ、日本に於ける科学主義工業の温床で、生産費に較べて著しく運賃の安い精密機械の部分品製造などが、最も適当であり、日本の工業をして世界と角逐させる道は之をおいてはないし、戦時に於てもこの形なら少しの動揺も蒙らずに済むという。以上は主に科学主義工業による低コスト[#「低コスト」に傍点]を証明する材料である。
 ではなぜ科学主義工業によると高賃金[#「高賃金」に傍点]となるか。この証明は直接にはどこにも見出されない。唯一の理解の仕方は之を農村労働力の能率[#「能率」に傍点]に結びつけることだろう。つまり労働力の能率がよければ低コストになると共に、同じ他の条件の下では、名目上高賃金の意味を有つだろうからだ。そこで曰く「そうして其(工作機械や測定機)の使い方が単調、無味であるように製作されてある程度精密に加工されるから、農村の子女が最も適当している。」「毎日毎日同じ作業をすると云うこと、而して此の簡単な作業に、飽きることを知らない農村の子女が、農業精神で精密加工するから。」「都会の人には堪え得られないような単調な作業でも、農業上の労苦忍耐の前には、日常の茶飯事である。」「日本の農業精神は土に親しみ郷土を愛し奉公の念に満ちている。外国から移し植えられて数十年にもならない日本の現代工業には残念ながらまだ此の種の精神的基礎が出来ていない。」「欧米の工業は資本主義、個人主義下の工業であって、日本の農業精神とは相距ること頗る遠い。」「農業精神が失われずして工業が副業として行なわれる」ことが望ましい。「農魂工才で行かなければいけないのである。」
 之が科学主義工業による、労働力側の能率の良さの根拠である。つまり農民の忍耐力が唯一の根拠だ。そして恐らく、この忍耐力のみが、名目上の高賃金の外見を招き得る唯一のものだろう。処が之は何等「科学」や「科学主義工業」の科学性やと関係のないことだ。科学主義工業は熟練を「科学」によっておきかえた。それでコストは安くなる。だがその代り、更に賃金までも高く見せるためには、この「科学」に農業精神という日本農民のあわれな道徳を補充しなければならぬ、ということになる。
 すると、「大資本の株式会社であると、すぐ資本主義に堕するように思えるが、科学主義工業下の資本は、資本主義下の資本と異り、情実と私利とから離れて、唯科学の指示する処に従って合理的に運用せられるに過ぎない」という著者の結論は、裏切られる。科学の他に日本的農業精神が大いに必要であったのだ。すると又、農村工業の低賃金による搾取ということを計画に入れたという著者の過去の誤りは、今日でも大して改悛されてはいないことになる。「大資本の株式会社」たる理研コンツェルンの諸会社が、資本主義ではなくて、ただ科学だけによる合理的経営であるというような科学主義工業説(農村副業論)は、極めて日本的な[#「日本的な」に傍点]条件を援用したテクノクラシーだと批評されても、やむを得まい。資本主義に対立するものとして、社会主義の代りに科学主義を持って来たことの、社会認識としての苦しさはさることながら、ここでも、文芸其の他の世界と同じに、科学自身や科学的精神は重大だが、「科学主義」などというものはあり得ないのである。博士の産業国策の実際案としては、之を決してナンセンスなどとは云わぬ。だが科学主義工業というそれの説明や意義のつけ方が、ナンセンスなのだ。
 以上の批評だけでは、この本の背景をなす著者の見解の、本当の社会的意義を明らかにするには足りない。それは他日。
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(一九三七年十月・科学主義工業社版・四六判一四三頁・定価九〇銭)
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[#改段]


 〔付一〕 ジードの修正について


 小松清氏訳のジード『ソヴェート紀行』を、かつて私は津々たる興味と切実な同情とを以て読んだ。ジードが着眼したソヴェートの優れた点も、ソヴェートの慨嘆すべき傾向も、さもあろうと思われるものであって、若し現実の事情にそういうものが全く欠けているというなら、恐らく私はそういう現実を、にせもの[#「にせもの」に傍点]と思ったに相違ない位いだ。
 ただあそこで吾々とジードとの物の感じ方を別つものは、ジードが専ら文化主義者として一切の現象をながめようとしている点である。彼は勿論あそこでは、生産機構や社会機構の物的本質に触れていない。だが仮に触れていたとしても恐らく、文化主義者らしい触れ方であったに相違ないのである。事実彼は、そういう方面の事柄については、発表しなかったが、観察を怠っていたのではない。それは『ソヴェート紀行修正』が示している。この『修正』に統計の引用が沢山あるというようなことを云っているのではない。そういうものがなくても修正は『紀行』よりもジードの生産機構や社会機構に対する注目を示している。処がその注目が、依然として文化主義者らしく、又文学者らしいのだ。
『修正』の方は後にして『紀行』はその体裁から云っても極めてジードらしい。つまり文化主義が純粋な形で、従って又それ相当の尊敬を要求しているような形で、首尾一貫して現われている。誠実な文化人、特に純粋で鋭敏な文化主義者ならば、ああ感じるのが当然だという気がする。之がジードに対する同情を惹き起こす。之が正しい興味を呼びおこす。
 好意のある興味と同情とは、勿論ジードの見解の狭さを指摘することとは矛盾しない。文化主義者ならああ感じるのが尤もだという理解は、だから文化主義者が正しいということと一つではない。吾々はジードの感じ方に同情を示しながらも、決してそのままジードに追随することは出来ない。吾々は世界の出来ごとを見るのに、ああした文化主義の角度からするのを、世界の文化人に最も普及した原則上の誤りだと考えるものであり、物ごとをもっと唯物論的に見ねばならぬと考えるからだ。マテリアリスティックなセンスを全く欠いている文化主義的リアリズムでは、そういう君の哲学では、判らぬものが世界には沢山ある筈だ、ホレーシオ君よ。
 もし仮にもっとマテリアリストとしての思考の訓練を経た他の人がソヴェート紀行を書くなら、ジードの『紀行』に載った材料の凡てと、その他のジードが見なかった又は書き留めなかった材料とによって、ジードとはやや反対の結論を導くのではないかと考える。私はフォイヒトヴァンガーのものも全部は読んでいないし、ウェッブ夫妻のものも見ていないが、私の想像は決して空想ではあるまい。
 だがそれにも拘らず『紀行』はフランスの自由な一思想家文学者の、最も誠実な印象記として、敬意を表するに値いすると信ずる。この本が出版された際に提出された反対、抗議、誹謗の内には、この誠実ささえ疑おうとするものも少なくなかったが、私は少なくともこの誠実だけは信じることが出来ると考える。吾々がサンセリテの思想家として紹介されているジード氏を、この『紀行』は決して裏切りはしなかった。ジード氏が誠実であり、又誠実であったということを、私は少しも疑うことは出来ない。のみならず誠実から来る一種の文化的勇気――之は下手をするとドン・キホーテの
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