理解力の行きとどいた頭脳とを以て、読者に感銘を与える処が大きい。
 だが本書の目標は書名が多少示しているように、ファシスモのイデオロギーであり、特にその系譜学(ゲネオロギー)である。かつて新明教授が東北帝大社会学研究室を動員して出版した『イデオロギーの系譜学』(上巻)(下巻は別名で出ている)は、世間であまり沢山は読まれなかったようだが、尊重すべき業績であった。本書の目標も亦、ファシズムに関する思想的系譜学の叙述にあるのである。この点については日本では他にわずかに今中次麿教授の『ファシズム論』(唯物論全書)中の論文があるだけであり、夫もジローネからの抜粋にすぎぬから、本書が殆んど最初の纏ったもののように考えられる。勿論外国文ではこの種のもの、又この種のものを含む本はおびただしく多いが、併し恐らく新明氏の仕事は之に勝るとも劣らぬものだろうと推察する理由がある。
 ファシスモ・イデオロギーは勿論その特有な社会観念と国家観念とを中心とするものであり、その観念の推移(社会は即ち国家だという観念に到達するまでの)に懸る処が多い。ファシスモの社会・国家・及び協同体乃至協同体国家・の観念を評論したものが第二部であって、之も亦組織立った卓越した仕事であると考えられる。第三部は本書の半ば以上を占める本論であるが、その直接の準備となるものが第二部である。
 第三部に於てはソレル・パレート・ニーチェの三人の思想と、ファシズム・イデオロギーとの理論的歴史的関連が、詳細に又具体的に説かれている。ソレルの暴力理論・プロレタリア革命理論とムッソリーニ其の他の政治的実践・理論・との連続と背反、パレートの社会主義・経済学・理論とエリート(選良)循環説のファッショ・イデオロギー的効果、ニーチェの超人と永劫回帰理論のファッショ・イデオロギーへの貢献とその批判、などが之で、ファシズムのイデオロギー論的思想史的分析が可なりよく成功していると共に、こうした諸思想家の社会学的評論としても異彩を放つものだ。保存すべき近来の良書である。
 疑問は二つある。一つは一体ファシズムのイデオロギーなどあまり問題にならぬではないか、という一種の常識だ。併しそれは単に思想史上の関心が浅いという事を暴露する疑問でしかあるまい。も一つは本書の目標がファシズムのイデオロギーに集中している事には異論ないとしても、ファシズムに対する充分な政治的批判(社会機構の分析の上に立脚する)がその条件とならねばならぬではないか、という疑問だ。著者が実践的な社会理論家ではなくて、学究的な社会理論家であるということが、ファシズム・イデオロギーに対する政治的水準と政治的角度とを許さぬらしい。だが本書のような仕事は、却って又、例えばパーム・ダットなどでは見得ないものでもあるのだ。
 (一九三六年十二月・岩波書店版・菊判・四八〇頁・定価三円)
[#改段]


 16[#「16」は縦中横] 早川二郎著『日本歴史読本』


 以前発表された『日本歴史読本』を殆んど全部に渡って書き改め、全く別稿としたものである。旧版以来の新興歴史学派の諸業績を摂取し、多少の意見を変更し(奴隷所有者的構成や近世土地制度の沿革についての如き)、「経済史的偏向を可成り克服し」、「個々の政治的事件・制度・人物等に渡っても大いに述べた」と著者は云っている。
 第一章は「原始時代及び『部』民制度の時代」(この部分は考古学的考証の新しい成果から出発している)、第二章は「『アジア的封建主義』の時代」(ここでは当然奴婢乃至奴隷と荘園発生発展という最も問題を含む部分が取り扱われている)、第三章は「典型的封建主義の完成時代」(鎌倉・建武中興・南北朝・に渡りその歴史的意義は時節柄最も興味のあるものだ)、第四章は「商業資本の発生及び発展の時代」(室町時代でありイデオロギーの問題としては鎌倉室町を一続きに論じている)、第五章は「封建制度再編成の時代」(戦国・安土桃山)、第六章は「資本主義の諸前提の生誕及び成熟時代」(江戸時代)、第七章は「明治維新」、第八章は「ブルジョア的変革の完成化の時代」であり、明治二十二・三年を以て筆を止めている。付録として「社会経済構成より見た世界対照年表」と「重要事件の年表」と更に「参考書の解題」とがあり、各章の終りには各節毎の参考文献と若干の注解とを含む「補注篇」がついている。図版(別刷を入れて)七十二図に及ぶ。
 之によって明らかなように、本書が日本歴史に関する極めて統一ある且つ親切な教科書であり、更に又注目すべきは、その歴史認識と歴史叙述とが科学的な本格を踏んでいる(と云うのは即ち史的唯物論の方法によって貫かれているということだ)、ということが判るのである。今の処本書が占めているユニックな位置は動かすことが出来ない。日本文によって書かれた日本歴史に関する特に文法的に科学的な唯一の現代的教科書であると云うべきだろう。それ故唯物論研究会に於ける国史特別研究会(レクチュア)のテキストとしても、又其の他の学生の諸研究会用のテキストとしても、用いられているわけだ。
 国史に関する専門的研究をやっていない私としては、個々の具体的な問題、著者の文献批判・史的解釈・社会構成的カテゴリーの発見及び適用・其の他に関する詳しい意見をここに示すことの出来ないのは遺憾である。ただ本書を一つの歴史叙述[#「歴史叙述」に傍点]として又教科書[#「教科書」に傍点]として見る時、多少の意見を加えることが出来るだけだ。著者が「経済史的偏向」を克服しようとした試みは或る意味で高く評価されねばならぬ。歴史的認識は歴史叙述に於て初めて具体的になるものであるが、この歴史叙述は普通の社会構成論では片づかない要因を含んでおり、それが従来のブルジョア歴史学の伝統的な課題なのだが、この伝統は史的唯物論に於ても別な重要性に於て摂取されねばならぬからだ。
 著者が歴史的諸個性(事件・制度・人物・其の他)を叙述するに力めたことは正当なことだ。併しその点なおまだ充分とは云うことが出来ない。戦争と帝王との歴史が無意味であるのは云うまでもないが、社会構成に従うエポックから出発することによって、結果に於て依然として政治的[#「政治的」に傍点]エポック(新しい時代分けでもよい)を結論するというのが、歴史叙述の本道ではないだろうか。之によって初めて社会史の認識は具象的になるのである。その意味で経済史的文献の引用の類は本書では多少比重を失して多すぎるようで、之は補注でリファーする方がいいと思う。ブルジョア的教科書のひそみに倣うのでは決してないが、ブルジョア的教科書の大衆に対する説得力も、唯物論的教科書の大衆性と市民的通用性とから云って、現代、意味のあることだ。それからもう一つ、著者の調子のよい文調は考証的又理論的な推理の厳密さを忘れさせるような個所も時にはあるようだ。――だが要するに本書の教科書的な価値は絶大であり、その現代に於ける社会的意義は重いと断せざるを得ない。
 (一九三七年四月改版・白揚社版・菊判四八〇頁・定価二円)
[#改段]


 17[#「17」は縦中横] 小倉金之助著『科学的精神と数学教育』


 小倉金之助博士が二十余年間に渡って選集した評論集であり、序篇の五篇は比較的旧いもの、本篇の十二篇は比較的新しいものである。序篇と本篇とを一貫するものは云うまでもなく科学的精神の提唱と検討とであり、又数学及び数学教育を中心とした自然科学乃至社会科学に於ける科学的精神の役割についての研究である。この一貫した根本主張は、すでに著者の著書『数学教育の根本問題』や『数学教育史』、『数学史研究』の内にも反覆主張され、また云わば実証されているものであり、博士の首尾一貫して変らぬ不羈独立の精神を告げて余りあるものだ。氏はみずからこの人間的態度を名づけてヒューマニズムとも呼んでいる。氏にとってはヒューマニズムという人間的態度と科学的精神との間に、絶対に切り離すことの出来ない直接連関があるのだ。ヒューマニズムと科学的精神とを対立させようなどとする現代の無知な文士や準文士達のヒューマニズムとは根本的に選を異にしている。尤も博士のヒューマニズムと考えるものは恐らくはレアリスティッシェ・シューレ(理科)に対するフマニスティッシェ・シューレ(文科)を連想させるものであり、特別に考え抜かれたものとは思われないが、それにしても、それが科学的精神の裏となり表となることによって、ハッキリとした内容を示している。
 博士の根本主張は、数学教育は、科学的精神をば数学を通じて教育するにある、ということだ。数学は人間の日常生活の経験から抽象されて発達したものである。従ってそこにまた数学なるものの真に科学的なそしてヒューマニスティックな本質が横たわる。数学専門家は之に基いて色々の抽象的又構想的な数学体系を組み立てることが出来るにも拘らず、日常生活と直接するという本来の数学の面目を忘れない実用数学(直接に日常生活から出発する数学の謂)は、数学教育にとって本道でなくてはならぬ。数学の実用数学に於て現われるような経験的・生活的・な本質があればこそ、数学と物理学其の他の自然科学との交流も理解出来る。
 私はさっき、数学の科学的[#「科学的」に傍点]な本質と云って解説した。科学的とはこの場合、博士によると歴史的・実証的・であることを意味する。事物の因果関係に立脚する発展法則を探求することだ。そして之がおのずから科学的精神なのである。だからこそ、生活に直接基いた数学を教育することによって、初めて、数学を通じての科学的精神の教育が行なわれ得るわけである。――かくて氏にとって実用数学――科学的精神の問題は、一面に於て中等・高等・諸学校に於ける数学教育(乃至科学教育)の現状に対する飽くなき不満を云い現わすと共に、他面に於て、科学的精神の訓練を経たことのない処から来る現下の日本の哀れむべき文化意識に対する呵責する処のない弾劾なのだ。私は多くの自然科学者達が、本書の態度に学ぶ処あらんことを切望する。
 序篇と本篇とを比較すると、前者に於て科学と云えば往々単に自然科学だけを指しているのが、後者では是正されている。その個処々々に於ける著者の注がみずから之を訂正しているのでも判る。そして著者は、序篇の時代に於けるマッハ主義的な見解を、現在の立場に立って、注に於てみずから指摘している。つまり博士は序篇時代から本篇時代に移ることによって、社会科学というものの観念と唯物論に立つカテゴリーとを獲得したことを、特に明示している。博士が専門家としてと共に言論家として、威力を頓に加えるに至ったのは全くここに由来するだろう。
 私個人の関心からすれば、本書のいくつかの論文には思い出の深いものがある。学生の頃に読んで頭に残っているものもある。又世間の多くの人は、最近の博士の有名な論策のいくつかをここで読み合わせることが出来るだろう。――最後にただ一つ私の気にかかる点がある。それは数学教育の問題を一旦別として、博士は日本に於ける教育家或いは師範教育乃至師範的教育に対して、どういう社会的批判の態度を取っているのであろうか。アレキサンドリア的学者と共に、先生的[#「先生的」に傍点]イデオローグも亦、科学的精神の敵であることを私は痛感しているので、この点博士の意見に期待する処が大きい。
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(一九三七年七月・岩波書店版・四六判・三四八頁・定価一円八〇銭)
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 18[#「18」は縦中横] ミショオ著 春山行夫訳『フランス現代文学の思想対立』


 Regis Michaud, Modern Thought and Literature in France, 1934 の翻訳に、訳者の「付録、人民戦線以後の文学」という政治的・文学的・クロニクルをつけたもの。訳者は「あとがき」で云っている、「ミショオがアメリカにいて、現代のフランス文学を三十年代の文学の見方から展望したことは、ある意味で、私のようにフランス文学だけを特に『フ
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