A私がいつも云うように、一種の文化主義者[#「文化主義者」に傍点]であり、文化的な自由主義者[#「文化的な自由主義者」に傍点]に過ぎない。素より彼のようなタイプの進歩的文化人は、フランスに於ては一定の政治的な積極的役割を果しているわけだが、ジード自身が云っているように、彼は不思議にあまり政治や経済のことを考えていないのである。そして而もみずからコンミュニストだと云うのである。
文化主義者の習性の一つとして、彼は政治と文化とを別々に考える。文化は反抗と自由とによるものであり、政治は之を画一主義(コンフォルミスム)に堕落せしめたものだと考える。政治によって文化の新しい誕生が齎されるというような唯物史観的関係は、殆んど眼中にはない。之が彼の一貫したソヴェート文化観の観点なのだ。
ソヴェート文化に対する善意的同情者が、ソヴェート文化に対する認識の限界につき当らねばならぬ所以が、ここに暗示されていることを知るべきだ。
だがジードによって指摘されたソヴェート市民の文化的画一主義・独善的自慢主義は、あり得べき事態ではあっても、決してソヴェート文化の自慢にはならぬ点だろう。ただその不満をああいう
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