驕j。
訳文が達者だといえば、河上徹太郎氏のシェストーフ『虚無よりの創造』(芝書店版)の訳は流石に名訳だ。同じくシェストーフ『悲劇の哲学』(河上徹太郎氏・阿部六郎氏・訳・芝書店版)の訳も名文だ。正確かどうかは知るところでないが、とに角翻訳であることを忘れて巻を措かずに読ませるものがある。前者は然し木寺・安土・福島・三氏の訳になる『無からの創造』(三笠書房版)と対比させて見ると興味がある。三氏の訳の方は収められた論文の数も遙かに多く、訳文も場合によっては地味に過ぎて生硬であったりするので、あまり読み良くはない。――だが実をいうと、私にはこういったニュヒテルンな性質の訳の方が所謂「名訳」よりも好ましいのである。なぜなら地味な訳は、概念上の連想が却って豊富なために、読むに骨は折れるが思想上の示唆に富んでいるからだ。尤も三笠書房のはもう一段手を入れるとズッと達意なものとなる余地があるとは思うが。
[#改段]
3 世界文学と翻訳
R・G・モールトンの『文学の近代的研究』(本多顕彰氏訳・岩波書店)を曾て私は読んで、第一に興味を惹かれたのは、文学と哲学との交渉に就いてであった。明治以来わが国では、文学と哲学とが殆んど全く絶縁されたような関係におかれている。それは文学が世界観や思想というものから縁遠くなって了っているからばかりではなく、哲学自身が世界観や思想として何等の積極性も自覚していないことから来るのである。だから偶々文学や哲学が何か世界観や思想を強いて持とうとすると、公式的文学観が生じたり、又その対立物として公式呼ばわり的[#「公式呼ばわり的」に傍点]文学論が発生したり、それから止め度もない体験の哲学や生の哲学が発生したりする。そして偶々文学と哲学とを結びつけたと見えるものには、往々極めてイージーな而もスケールの小さく浅はかな文学めいた哲学や哲学めいた文学が見出される。こうした手先の扮飾では、文学と哲学との根本的な結び付きなど決して浮び上って来るものではない。文学と哲学とが本格的に交渉するのは、クリティシズム[#「クリティシズム」に傍点](批評・評論)に於いてなのだ。考え方によっては極めて判り切ったこの関係を、克明に講義したものが、モールトンの今の本だ。
第二に興味を有った点は文学と古来及び近来のジャーナリズムとの関係である。遠くはホーマーや中世の吟遊詩人、降って廿世紀のジャーナリストに至るまで、その文学的役割が割合一貫して問題にされている。文学とジャーナリズムとを結びつける点は、ここでも亦クリティシズムなのである。
処がクリティシズムという観点から文学を根本的に取り上げるならば、第一に批判されるべきものは、文学研究を語学研究と取りちがえ勝ちな一つのペダンティックな錯覚である。日本でも英文学とか独文学とかいう少し考えて見ると実に変な文学研究[#「研究」に傍点]が行なわれているようだ。そして之は何も日本に限ったことではないらしい。モールトンはこの弊害を指摘する点に於て可なり徹底的なのである。彼はそこで、こうした国語の制約によって束縛され得ない真に文学的なものを求めて「世界文学」の観念に到着する。『世界文学』(本多顕彰氏訳・岩波書店)は主として、世界文学的な普遍通用性を有った文学的源泉を五つ挙げて、真に文学的なものの世界史的系統樹立を解説している(バイブル・古典叙事詩と古典悲劇・シェークスピア・ダンテとミルトン・ファウスト物語の五つが之である)。
だが云うまでもなくここですぐ様問題になるのは「翻訳」というテーマである。吾々は之まで、翻訳というものの本当に文学的な或いは哲学的な意義に就いて、充分な注意を払っていないのではないかと思う。併し実は翻訳の問題ほど、今日重大な社会問題は他にないとさえ云ってもいい位いだ。例えば、所謂外来思想は日本へ翻訳[#「翻訳」に傍点]され得ないものだとか、日本精神は外国へ翻訳[#「翻訳」に傍点]され得ないものだとか、というようなデマゴギーがもし本当ならば、本当の文学や哲学はその日から消えてなくなるからだ。広く翻訳の可能性はクリティシズムに含まれる根本要素の一つであって、文化の紹介や批評のために欠くべからざる要具なのである。モールトンのこの二つの書物は翻訳のこの広範な意義を最もよく明らかにしていると思われる。
野上豊一郎氏『能の再生』(岩波書店)の出版を見たが、そこでも能を、英文へ翻訳するに就いて翻訳問題が提起されているのを見受けた。氏は翻訳の意義に就いて夙に注目している文学者の一人である。モールトンの著書の発行年度は決して新しいものではない。『世界文学』などは一九一一年に出ている。それから云うまでもなく之は、社会科学的な訓練を経た文芸科学書ではなくて、典型的なブルジョア文学教科書に過ぎない。そ
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