村の物質的(そして恐らく精神的)条件に立脚した副業として農村工業[#「副業として農村工業」に傍点]こそ、日本に於ける科学主義工業の温床で、生産費に較べて著しく運賃の安い精密機械の部分品製造などが、最も適当であり、日本の工業をして世界と角逐させる道は之をおいてはないし、戦時に於てもこの形なら少しの動揺も蒙らずに済むという。以上は主に科学主義工業による低コスト[#「低コスト」に傍点]を証明する材料である。
 ではなぜ科学主義工業によると高賃金[#「高賃金」に傍点]となるか。この証明は直接にはどこにも見出されない。唯一の理解の仕方は之を農村労働力の能率[#「能率」に傍点]に結びつけることだろう。つまり労働力の能率がよければ低コストになると共に、同じ他の条件の下では、名目上高賃金の意味を有つだろうからだ。そこで曰く「そうして其(工作機械や測定機)の使い方が単調、無味であるように製作されてある程度精密に加工されるから、農村の子女が最も適当している。」「毎日毎日同じ作業をすると云うこと、而して此の簡単な作業に、飽きることを知らない農村の子女が、農業精神で精密加工するから。」「都会の人には堪え得られないような単調な作業でも、農業上の労苦忍耐の前には、日常の茶飯事である。」「日本の農業精神は土に親しみ郷土を愛し奉公の念に満ちている。外国から移し植えられて数十年にもならない日本の現代工業には残念ながらまだ此の種の精神的基礎が出来ていない。」「欧米の工業は資本主義、個人主義下の工業であって、日本の農業精神とは相距ること頗る遠い。」「農業精神が失われずして工業が副業として行なわれる」ことが望ましい。「農魂工才で行かなければいけないのである。」
 之が科学主義工業による、労働力側の能率の良さの根拠である。つまり農民の忍耐力が唯一の根拠だ。そして恐らく、この忍耐力のみが、名目上の高賃金の外見を招き得る唯一のものだろう。処が之は何等「科学」や「科学主義工業」の科学性やと関係のないことだ。科学主義工業は熟練を「科学」によっておきかえた。それでコストは安くなる。だがその代り、更に賃金までも高く見せるためには、この「科学」に農業精神という日本農民のあわれな道徳を補充しなければならぬ、ということになる。
 すると、「大資本の株式会社であると、すぐ資本主義に堕するように思えるが、科学主義工業下の資本は、資本主義下の資本と異り、情実と私利とから離れて、唯科学の指示する処に従って合理的に運用せられるに過ぎない」という著者の結論は、裏切られる。科学の他に日本的農業精神が大いに必要であったのだ。すると又、農村工業の低賃金による搾取ということを計画に入れたという著者の過去の誤りは、今日でも大して改悛されてはいないことになる。「大資本の株式会社」たる理研コンツェルンの諸会社が、資本主義ではなくて、ただ科学だけによる合理的経営であるというような科学主義工業説(農村副業論)は、極めて日本的な[#「日本的な」に傍点]条件を援用したテクノクラシーだと批評されても、やむを得まい。資本主義に対立するものとして、社会主義の代りに科学主義を持って来たことの、社会認識としての苦しさはさることながら、ここでも、文芸其の他の世界と同じに、科学自身や科学的精神は重大だが、「科学主義」などというものはあり得ないのである。博士の産業国策の実際案としては、之を決してナンセンスなどとは云わぬ。だが科学主義工業というそれの説明や意義のつけ方が、ナンセンスなのだ。
 以上の批評だけでは、この本の背景をなす著者の見解の、本当の社会的意義を明らかにするには足りない。それは他日。
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(一九三七年十月・科学主義工業社版・四六判一四三頁・定価九〇銭)
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 〔付一〕 ジードの修正について


 小松清氏訳のジード『ソヴェート紀行』を、かつて私は津々たる興味と切実な同情とを以て読んだ。ジードが着眼したソヴェートの優れた点も、ソヴェートの慨嘆すべき傾向も、さもあろうと思われるものであって、若し現実の事情にそういうものが全く欠けているというなら、恐らく私はそういう現実を、にせもの[#「にせもの」に傍点]と思ったに相違ない位いだ。
 ただあそこで吾々とジードとの物の感じ方を別つものは、ジードが専ら文化主義者として一切の現象をながめようとしている点である。彼は勿論あそこでは、生産機構や社会機構の物的本質に触れていない。だが仮に触れていたとしても恐らく、文化主義者らしい触れ方であったに相違ないのである。事実彼は、そういう方面の事柄については、発表しなかったが、観察を怠っていたのではない。それは『ソヴェート紀行修正』が示している。この『修正』に統計の引用が沢山あるというような
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