アには著しく岩波臭い好みがある。文化が好みに堕す時、もはや対社会的な指導力を失う時だ。有態に云って、最近幾年かの岩波出版物は文化指導的なものだと云い切ってしまうことは出来ないのではないかと思う。「講座」や「全書」はなる程、日本文化の最高水準を示し指導力の絶大なものだが、併しアカデミックな技術水準だけで、文化水準を測ることは、アカデミシャンの迷信である。私は岩波出版物に於て、その内容の高さに拘らず、一種低い階級性の感触を有つものだが、古典的な外国文献の翻訳は云わば文化の材料のようなものだから、そういう欠陥が目だたない。岩波文庫が日本の文化に貢献すること大である所以だ。
[#改段]
8 現代哲学思潮と文学
古来哲学は思想の科学である。そういうと殊更哲学の領域を制限するように聞えるかも知れないが、恐らく夫は、思想とか哲学とかいう観念をごく便宜的に呑み込んでいる一種の常識のせいだろう。私は今夜(一九三七年三月)偶然横光利一氏の「科学と哲学」というラジオ講演を耳にしたが、その論旨はとに角として、思想とか科学とかいう言葉が甚だ軽薄な使われ方をしているので、寧ろ心外であった。言葉はどうでもいいように見えるが、言葉のルーズなのや軽薄なのは直ちに物の考え方を誤る恐れがあるし、又それ自身物の考え方のルーズさや軽薄さを意味しさえするだろう。――だがこう云って来ると、直ちに、哲学と文学との連関に這入って来るが、それは後にするとして、とに角哲学は古来思想の科学であったし、現在でもそうなのだ。
自然哲学はでは思想の科学か、と云うかも知れない。だが自然哲学の歴史は、自然を如何に考えるか[#「如何に考えるか」に傍点]という問題の解決と共に動いて来たことを忘れてはならぬ(例えばタレスの水から無限定者に来るまで)。形而上学は思想の科学かと云うだろう。所謂形而上学(純正哲学という意味での)は明らかに思想の科学である。例えばベルグソンを見るがよい。世界に就いて物を最も広く深く考える考え方が、ベルグソンなどの形而上学と呼びたいものに他ならぬ。
思想の科学は常に認識理論乃至論理学であった。勿論新カント派の意味する認識論や論理学、又学校論理学の類に局限されたものの謂ではない。一切の文化領域を貫く認識とそれに必要なカテゴリーの秩序や観念の秩序の検討のことだ。だから思想の科学としての哲学は一切の文化
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