ミについては、矢張り岩波文庫を推さねばならぬようだ。他の文庫に権威がないというのではないが、元来校訂に最も細心な注意を払うのが、岩波出版物の特色で、文庫もまたその例にもれない。少なくとも学究的な安心を以て読むことが出来るという点が、この文庫を買い又は所有させる魅力の一つだと思われる。
だが岩波文庫のもう一種の特色は、現代日本に於て著われた著述を含むこと極めて乏しいということだ。大部分が外国に於ける古典的価値ある歴史的に残る文献の翻訳であり、その次が多少の日本の古典である。例外として、現代作家のものがいくつかあるが、この点到底春陽堂や改造の諸文庫の比ではない。勿論これは営業関係から見ると却って、岩波出版物全般の商業上の堅実さを意味するわけで、つまり自分の処の普通の現代著述の単行本は、文庫版としては安売しないということだが。
それに事実上今日最も読まれるものは、何れによらず翻訳物であるらしい、これは日本の読書界の或る種の健康さをこそ現わせ、決してその無気力を意味するものではない。実際吾々の摂取する最も良質な知識や見識は、その大半が古典的意義のある外国の書物の翻訳から来るのである。というのは、真に古典的なものは実は世界的なものなので、之を外国の書物であるとか日本の本でないとか云うことが殆ど無意味であるからなのだ。――従って岩波文庫が翻訳物に主力をそそいでいるということは、その営業上の理由を別にして考えて見ても、極めて意味の深いことなので、もし文庫版なるものが一般に、さき程云ったように一般的な教養の糧を提供するという文化的目的を持ち前とするなら、いやより正確に云って、そういう文化的目的を標榜し得るような結果を企業上持ち得るものなら、日本の今日の文庫版は、翻訳物を中心としなければならぬということが、必然であろうと私は考える。私は本多顕彰氏と共に「翻訳家の社会的地位」を尊重するばかりでなく、翻訳そのものの日本文化に於ける地位が、極めて高からざるを得ない、と考えている者なのである。
岩波文庫が大体に於いて信頼すべき権威ある翻訳を中核としているという事情は、もう一つこの文庫に長所を与えている。それはこの文庫が云わば「岩波的観念」に大して支配されていないということだ。他の岩波出版物は、少なくともその選定に於て、今日では決して高級出版物を全面的に代表しているとは、考えられない。そ
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