フ域を思想内容という媒質により連関関係させる処の観念的技術だと云ってもよい。この思想上の又思潮上の観念的技術に触れない時、どの文化領域も方言[#「方言」に傍点]を脱することは出来ぬ。方言から批評へ行くことは堂々とした形では不可能だ。この点文学と哲学的思考との関係についてもそのままあて嵌まる。私は先日上田敏の『現代の芸術』という本を読んだが、今から二十年も前に、すでにこの点が詳細に解説されているのを見て敬服したものだ。だが云って見ればこんなことは常識に過ぎない。処がその常識さえが方言の世界では通用しないのだ。
 さて現代の問題にあて嵌めて見ると、例えばアランの『精神と情熱に関する八十一章』(小林秀雄訳)(情熱は情念[#「情念」に傍点]と訳した方が語弊がないようだ)などは、フランスの現代哲学思想と文学との連関を示す一種類の典型だろう。彼はこの一種の哲学概論で、要素的なテーマから段々高度のテーマに移りながら、極めて手の届いた説明を試みているが、高度の問題はいつか文学の問題に接着して行っている。その思想傾向の特色は今は問題ではないが、とに角、哲学の問題がやがて文学の問題に接着して行くということは、決してアランの場合に限るのではなくて、フランスの文芸評論家や思想家、哲学者には珍しくない。而も之は哲学と文学の間とか、文学的哲学とか、哲学的文学とかいう種類の半パ物ではないのだ。要点は大体モラルの問題にあるようだ。モラリストの云う意味でのモラルに於て、哲学と文学とが接着しているのである。
 勿論現代の哲学思潮の凡ゆる傾向は文学の内に多少とも現われているし、又その逆も真だ。主観的観念論と心理主義又身辺小説とか、客観的観念論と各種ユートピア文学(科学小説も含む)とか色々の一対があるわけだ。特に現代に於ける哲学思潮と文学との特色ある一対は唯物論とプロレタリア文学との一対だ。だがここでもやはり、哲学思想と文学との連関点が今日でもモラルの問題に集中している。唯物論的なカテゴリーとしてモラルが何であるかは別として、とに角、モラルは文学と哲学とにとって、クロスした要点なのだ。というのはつまり、文学的認識に就いての認識論上[#「認識論上」に傍点]の最も大切なカテゴリーがモラルにあるというわけなのだ。モラルは認識論上のカテゴリーなのだから、思想の科学としての哲学にとっては、元来、極めて大きな役割を持
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