\わないと思うが、少なくとも悪文でなしに、達意の文章を書けるということは、人間の資格に関わる大切な能力である。国語教育[#「国語教育」に傍点]というもの、またこれを研究する国語教育科学[#「国語教育科学」に傍点]というものがあるなら、それはこうした人生[#「人生」に傍点]における作文の意義を闡明する立場に立脚しなくてはなるまい。
今度、垣内松三教授の『国語教育科学』(全十二巻)の計画が発表されて、その第一巻『国語教育科学概説』が出たが、それを読んで見て、私がかねがねもっているこの作文論が、大した見当違いの思い込みでなく、この専門家によっても立派に認められているのを知ることが出来たのは愉快である。
氏はその新鮮で独創的な「国語教育科学」という科学(国語教育を取り扱う教育科学)をば言語哲学的考察から出発させる。E・カッシーラーの見解に近いのかと思うが、国語の力[#「国語の力」に傍点]を象徴形式としての言語の内に見ようとするのである。氏はそれに因んでW・フンボルトの言語哲学や、ペスタロッチの国語教育説、更にカントやフィヒテの言語論にまで論拠を求めているのである。こうした言語哲学の上に立って、教授はその国語教育科学について、いわば科学論を展開して見せる。国語教育科学は新興教育科学の最前線にあってその主力を形成するものだというのである。例の私の作文論からいってもそれは甚だ賛成出来ることだ。教授は更に国語教育科学の方法論[#「方法論」に傍点]に這入るのであるが、その点になると全く素人の私には説をなす資格がない。
[#改段]
5 『本邦新聞の企業形態』に就いて
東京帝大文学部内の新聞研究室の第二回研究報告『本邦新聞の企業形態』という本が出ている。本年(一九三四)三月の発行。新刊とは云えないが、世間には必ずしも広く知られていないので、紹介傍々問題にして見たいと思う。
同研究室は殆んど日本に於ける唯一の科学的新聞研究所で、すでに多数の実際の新聞記者を輩出しているばかりではなく、新聞現象に関する基本的な実証的並びに理論的な研究に従事し、相当その成績をあげている。一つには今日の日本の大学が持っている各種の制限のために、この研究室の社会的見解は必ずしも進歩的な社会科学の本筋を辿っているとは云えないかも知れないが、併しそれは無論決して反動的な意図からなどではないのである。寧
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