黷ノも拘らず実に卓越した多くの主張と強調点とを持っていることは注目に値いするだろう。
[#改段]


 4 作文の意義
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――垣内松三教授の著『国語教育科学概説』について――
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 私は国語についても、教育についても、ただの素人に過ぎない。併しかねがね懐いている一つの意見があるのだ。それは所謂作文[#「作文」に傍点]というものの意義についてである。
 作文というと学校で教える教授課目の一つであるように思われるかも知れないが、併しこれは決してそんな教壇的な学校教育者風な興味からだけ論じられてはならない問題なのだ。われわれの日常生活は毎日社会自身から何かの形で成人教育を受けているものに他ならないが、その内でも今日最も信頼するに足る最も有効なそれからまた最も大規模な成人社会教育の手段は、出版だといっていい(今日のラジオは有効ではあるが併し決して信頼するに足る手段とはなっていない)。
 ところが世間の多くの人達は出版物によって、ただ受動的に教育されているだけで、必ずしも自分では能動的に言論を発表しているとは限らない。ということは、世間一般の人達が、思想を構成しこれを言葉によって表現するというような訓練をあまりやっていないということである。それであるから出版物の多い割合に、一部の執筆業者や研究家を除いては、表現能力や従ってまた思想構成能力が教育されていないので、これは人類の訓練という目的からいうと、全く不経済なことだという他はない。
 ところで作文とはこの表現能力従ってまた思想構成能力の訓練を目的とするものだろうと思うが、これは単に文章を作ることといったような訓練などではないので、実は常識を陶冶し見識を養成するための自発的な訓練方法のことなのである。学校でやる外国語もまたただ英語やドイツ語を覚えて、欧米人の無意味で不必要な真似をすることが目的ではない筈で、凡そ文章なるものに注意を集中させることによって、合理的で進歩的な思想・常識・見識・を養成するための手段としての、作文科に他ならなかった筈だと考える。
 さてこうした作文は無論国語教育の問題に帰着するのだが、実際をいって、大学を出ても満足な「文章」一つ書ける人間が非常に少ないということは、意外な事実なのである。美文などならば元来が殆んど意味のないものだから、それが上手でも下手でも
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