チて廿世紀のジャーナリストに至るまで、その文学的役割が割合一貫して問題にされている。文学とジャーナリズムとを結びつける点は、ここでも亦クリティシズムなのである。
処がクリティシズムという観点から文学を根本的に取り上げるならば、第一に批判されるべきものは、文学研究を語学研究と取りちがえ勝ちな一つのペダンティックな錯覚である。日本でも英文学とか独文学とかいう少し考えて見ると実に変な文学研究[#「研究」に傍点]が行なわれているようだ。そして之は何も日本に限ったことではないらしい。モールトンはこの弊害を指摘する点に於て可なり徹底的なのである。彼はそこで、こうした国語の制約によって束縛され得ない真に文学的なものを求めて「世界文学」の観念に到着する。『世界文学』(本多顕彰氏訳・岩波書店)は主として、世界文学的な普遍通用性を有った文学的源泉を五つ挙げて、真に文学的なものの世界史的系統樹立を解説している(バイブル・古典叙事詩と古典悲劇・シェークスピア・ダンテとミルトン・ファウスト物語の五つが之である)。
だが云うまでもなくここですぐ様問題になるのは「翻訳」というテーマである。吾々は之まで、翻訳というものの本当に文学的な或いは哲学的な意義に就いて、充分な注意を払っていないのではないかと思う。併し実は翻訳の問題ほど、今日重大な社会問題は他にないとさえ云ってもいい位いだ。例えば、所謂外来思想は日本へ翻訳[#「翻訳」に傍点]され得ないものだとか、日本精神は外国へ翻訳[#「翻訳」に傍点]され得ないものだとか、というようなデマゴギーがもし本当ならば、本当の文学や哲学はその日から消えてなくなるからだ。広く翻訳の可能性はクリティシズムに含まれる根本要素の一つであって、文化の紹介や批評のために欠くべからざる要具なのである。モールトンのこの二つの書物は翻訳のこの広範な意義を最もよく明らかにしていると思われる。
野上豊一郎氏『能の再生』(岩波書店)の出版を見たが、そこでも能を、英文へ翻訳するに就いて翻訳問題が提起されているのを見受けた。氏は翻訳の意義に就いて夙に注目している文学者の一人である。モールトンの著書の発行年度は決して新しいものではない。『世界文学』などは一九一一年に出ている。それから云うまでもなく之は、社会科学的な訓練を経た文芸科学書ではなくて、典型的なブルジョア文学教科書に過ぎない。そ
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