ですが、しかしフッセルルの哲学と雖も、矢張り体験とか意識とか云う問題が中心になって居るものであって、広い意味では之も生の哲学に入れることが出来ます。
 フランスの生の哲学者として有名なベルグソンの問題の領域と、フッセルルのそれとは非常に似たものを持っているようです。
 ハイデッガーは此の二つの近代哲学の対立物を、両方が生の哲学である点を媒介として結び付け、そして更に其の上「生」と云う概念に特別な色調を与える。其の色調と云うのは、「生」即ち生命、人間の存在と云うものが、本来宗教的な生活を真面目とする筈のところ世俗の生活としては日常的な生活態度として、宗教的な生活態度から離れ落ちてる。そういう生活の分裂を通して、人々が再び真の宗教的生活態度に帰って行かねばならぬという風に人間生活を規定した。そういう風に規定された宗教的人間存在の何よりの特色は、人間の生活が有限である[#「人間の生活が有限である」に傍点]、死が待っているという点で条件づけられている。斯ういう風にライフが死によって条件づけられているのです。ハイデッガーの哲学が現在に於ける最も代表的な、世界を通じて代表的な、生の哲学であることは前に述べた。そして此のハイデッガーの哲学の思想的背景は明らかにカトリックのものであって、其の先生であるフッセルルの哲学は、スコラ哲学の現代的形態とも云うことが出来るでしょう。
 しかし、ハイデッガー哲学の持つもう一つの要素である所のディルタイは、云う迄もなくプロテスタントであり、嘗てのプロテスタントの驍将シュライエルマッハーの後を継ぐものである。従ってそれだけハイデッガーの哲学は、プロテスタント的特色をも兼ね備えていると云われています。
 所がハイデッガーが言わば発見したと云ってよいキールケゴール、此のキールケゴールこそ、ハイデッガーが自分の哲学のやり方の先駆者として見出したのでありますが、恰も、其のキールケゴールは今日の弁証法的神学者達の拠り所となっている。弁証法的神学は言う迄もなく、プロテスタントの甦生運動であるけれども、シュライエルマッハー風のプロテスタンティズムに反対して、もっと古典的なものに帰ろうとして、其の為めにキールケゴールを持ち出す。そういう具合に、一方弁証法的神学が、従来のプロテスタント主義から離れると同時に、他方ハイデッガーは、従来のカトリック主義から多少ずれて[#
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