を馘にしたし、林達夫氏は関根氏のブリュンティエールの旧訳をタタいて凹ませたし、小島喜久雄氏は団氏の西洋美術史の訳書のデタラメを手痛く指摘して東大助教授を止めさせて了った。道徳上の善し悪しなどは少しも問題ではないが、併し注意すべき点は、どの場合にもヤッツケた人自身、大抵それまでに既に相当のアルバイトを世間に向かって客観的に示していた人だったということで、そこで世間はこの春秋子の立場を尤もなものとして承服するのである(それに大抵事前に相手と個人的な折衝を試みている)。本当にインチキなものならば大いにヤッツケるべきだが、併し他方、日本の各種古典学者の通弊は、篤学以て独り潔しとすることである。処が世間は学者の存在理由を、その仕事の客観化された量質で以て計るものである。
[#改段]


 〔付〕 最近のドイツ哲学の情勢を中心として
     ――戸坂潤氏にものをきく会――


[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
中村 本日は雨中を態々お集り下さいまして誠に有難う御座います。「何を読むべきか」について、色々お気付の事をうかがいたいと思いまして、此の様にお集りを願った次第であります。
A 今夜は主として最近のドイツの哲学界の情勢とそれの日本の思想界への反映について戸坂氏のお話をうかがい度いと思います。
戸坂 独逸の哲学に就いてですが、それも新刊は此の頃余り手にしませんからよくわかりませんが、少しお話致します。
[#ここから1字下げ]
 大体、最近の独逸の哲学の傾向と云うのは、恐らく広い意味で生の哲学[#「生の哲学」に傍点]と云う特色を持って居ると思います。
 生の哲学には、いろんな通俗哲学もある様ですが例えばシュペングラーとか云った連中が非常によく読まれているそうですが、アカデミカルな方面ではハイデッガーの哲学が全盛の様に思われます。ハイデッガーの哲学は、一体ディルタイとフッセルルを結合したものにあたるわけで、フッセルルはよく知られて居るように、非常に科学的な研究方法を採っています。云わば数学的な特色を持っている哲学であって、ディルタイの方は歴史的生活という問題を中心にしているだけに、可なり文学的な、詩的な特色を持っている。ですけれども、此の二つの相反した哲学は、最近の代表的なものとして一般の注目を惹いて居る。
 狭い意味での所謂生の哲学、これはディルタイの方を含むわけ
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