う事実を私は強調したいのである。凡てが欠点で悪い作用一方だというような訳はあり得ないのだから。
それから今日では、その方が、翻訳の質を段々よくして行くという実際上の効果が一層あるように思われる。特に熊沢氏のようにその仕事の意図が吾々と本質的に一致している時には、こういうやり方の方が却って峻厳な批評[#「峻厳な批評」に傍点]の実質を備えるものだ、というのが批評というものの一つの秘密であろう。――批評は峻厳でなければならぬ。不純な手心があってならぬ。だが厚意ある峻厳こそは最も峻厳であり、最大のリアルな苦言[#「リアルな苦言」に傍点]なのだ。武田氏自身がゴーリキーの批評家としての態度について云っている、「この愛情は若い作家達に対する彼の指導[#「指導」に傍点]と、世間一般の『批評家』達が作家・作品・に対する態度とを比較するならばあまりにも明瞭である」。武田・熊沢・両氏の批評者と被批評者としての関係についても(ムタティス・ムタンディに)、同じことが云える筈だ。
[#改段]
8 篤学者と世間
斎藤※[#「「日+向」、第3水準1−85−25]氏と畠中尚志氏なる人とが、『思想』誌上でスピノザ邦訳に関して喧嘩をしている。初めて攻撃の矢を放ったのは畠中氏の方であって、相当痛烈なものだったが、斎藤氏は之に対して、多少問題の核心を避けながら、一種皮肉な口吻で高踏的な答をした。翻訳に多少の誤訳のあるのは已むを得ないことだが、それをそんなに大騒ぎするのはどういう目的なのか、という口吻である。併しテキストに関する論争としては、素人の眼から見て、勝味は畠中氏の方に多いように見えるのであって、畠中氏は今月号(一九三四年九月)の『思想』では大分落ちついて、斎藤氏に止めを刺そうとしているらしい。
だが吾々素人の読者にとっては、この種の問題は決してただのテキスト批判の問題には止まらないのである。現に畠中氏も斎藤氏もそれぞれ「学的良心」とか「学者の信用と地位」とかいうものを持ち出して問題にしているが、それが単なるテキスト・クリティックの問題に止まらない証拠である。そこでテキスト・クリティックの観点以上の観点に立つと、どっちの方に理があるか、簡単には決まらなくなる。
一体『思想』という雑誌は之まで時々この種の学界警備に任じて来た。和辻哲郎氏は東北帝大教授藤岡氏のコーエン翻訳をヤッツケて訳者
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