れば、浅墓の極みである。物を少し親切にリアリスティックに掴もうとすると、そう棒ちぎりを振りまわすように行かなくなる。批評論文にしても、少し気をつけて読むためには、賛成している処に反対しようという用意を見、反対している処に賛成の素地を見出す底の用心がなくてはならぬ。結論は賛否ハッキリ出来る場合が勿論極めて多いわけだが、その結論まで行く迂余曲折が論文の生命で、そうでなければ折角通過した地点も容易に失われねばならぬだろう。論文の進め方は戦線の前進のように考える必要がある。前にさえ行けばいいというわけのものではないのだ。いや、結論ということ自身をもっと慎重に理解すべきであって、ただの結論は何の実力もない独断と同じである。結論は分析と総合とを通して得た行論[#「行論」に傍点]の結論以外のものではなかった筈だ。
 論文は出来るだけ簡潔に卒直に書かねばならぬ。余計な尾鰭は原則として邪道の因である。だが論文は幼稚であってはならぬ。用意周到に事物の表裏を点検しなければならぬ。その意味では、出来るだけ複雑で皮肉で触角の伸びたものであってほしい。そしてそういう雑多を整理した上での、卒直簡潔が本当の水際立った論文なのである。――だがこういうことが出来るために、最後に最も大切なのは、勘である、感覚である。事物に対して持つ直覚の優秀さである。之は不断の訓練に俟つものだ。
[#改段]


 6 校正


「そのやうな」は「ような」とは書かない。「しようと思ふ」は「しやう」とは書かない。「用ゐる」は「ゐる」又は「ひる」であって、決して「用ふる」や「用ゆる」であってはならない。校正者はこの程度の国文学者であることが必要だ。
 なる程発音通りに仮名を使えという主張がある。之は確かに進歩的な主張だと思う。併し、仮名通りに書かない処の国語の習慣に従った原稿である場合には、少なくとも以上のように校正することが必要だろう。
 それから又、文法的に正しくあろうともなかろうとも、現に大衆的にそう使っている以上、それでいいではないかという反対もあるだろうが、それだけの覚悟があるなら又別だが、併しそれにしてもさっきのような点は、知っていなくてはならぬ、ということに変りはあるまい。之を知らない程度の校正者は何を仕出かすか安心ならぬ。
 校正者は国文法だけではなく、漢字の熟語や、英独仏露、エス、ギリシア、ラテン其の他の語
前へ 次へ
全137ページ中125ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング